行方を定めぬ旅は楽しい。
などと書くと気ままな旅に出たようだが、たった半日の外出である。
行方も二箇所、つまり二つの用件については決まっている。しかし、それも何時にと決められているわけではないので、どのルートをとり、どこへ立ち寄ろうとも自由である。しかも、自転車だから、ここぞという箇所で勝手に止めて時間を過ごせる。
もう真夏並みの暑さだ。一昨年、この地方が40度近くになった折、やはり自転車でぶらぶらしていて軽い熱中症にやられた(半日のダウン)ことを思い出し、帽子を被り、それに備えた。
こういう時には多少遠回りしても、いつも通らない道を通るに限る。
そのせいで、早速今では珍しい光景に出会う。
傘を干しているのだ。
傘を干すといっても雨に濡れたそれを干しているわけではない。
製造過程の途中での乾燥作業なのだ。
主とおぼしき人がいたので、写真を撮らせてもらいたい旨告げたら、「今日はこれだけしか干してないから、もっとたくさん干してあるときに来なければ」といいながらも承諾してくれる。
実は前にここを車で通りかかり、カラフルな何本かの傘が干してあるのを目撃したことがあるのだ。車一台しか通れないような路地なので、改めてと思っていて場所も定かでないほど忘れてしまっていたのだ。今日ここへ来合わせたのもまったくの偶然であった。
子供の頃育った岐阜の加納地区は、全国で名だたる和傘の産地であった。天候のいい日には、空き地という空き地のいたるところに傘が干してあった。そんな近くでキャッチ・ボールでも始めようものなら、どこからともなく大人たちが飛んできて、「コラッ」と追っ払われるのが常であった。
それらの光景は、昭和の30年代に入り、洋傘が主流になるにつれて次第に消えていってしまった。だからこそ懐かしいさがいっぱいなのだ。
ここへは、もっとたくさん、カラフルなものが干してある頃を見計らって再訪したいものである。
この写真だけではなんだか分からないだろう。
実はこれ、下の写真の左端に褐色に見えている部分なのである。
上を走っている電車は、名古屋鉄道(通称名鉄)名岐本線であるが、その橋脚なのである。
なぜこんなものを撮したかというと、この部分のみ、とても古いからである。
おそらく、旧名古屋鉄道が美濃電気軌道と合併し、名岐本線が開通した1935年(昭和10年)以来のものではないかと思われる。
ではなぜこんなところに橋脚があるかというと、かつてJRの東海道線、高山線が下を走り、それをまたいで名鉄線が走っていたからである。ところが1996(平8)年、JR岐阜駅並びに各線が高架化され、今では名鉄線の上をJRが走っている。
つまり、かつては一階をJR、二階を名鉄だったのが、今では三階をJRということになったわけである。
従って、この古い橋脚は、そうしたかつての経緯を物語る証人としてここにひっそりと佇んでいるわけである。
いつかは撮してやろうと思っていたのだが、それが果たせてよかった。もっともこんなことに気をとめる暇人は私ぐらいであろうから、こうして記録してもなんの意味もないのかも知れない。しかし、この煉瓦積みの橋脚は、私がそこを通るたびに、「俺を撮せ」と迫ってきたのは事実なのだ。繰り返す。撮してやれてよかった。
話はいきなり柳ヶ瀬商店街へと飛ぶ。
平日の午後の柳ヶ瀬はママチャリ・ロードである。かくいう私もその仲間。
せめてもの賑わいに飾られた手作りの七夕を撮していたら、その陰から不意に美人が現れた。
「あなた、べっぴんさんだからちゃんとカメラに入ってくれたらよかったのに」と声をかけたら、「アラ、やだ」と笑うしぐさと目つきが艶っぽい。思わずその人について行きたくなった。
その後、高校時代の同級生がやっている果物屋に立ち寄る。
あいにく配達中とかで彼はいない。待っているほどの用件もないので、「よろしく」と奥さんに告げて立ち去る。
夕刻、彼から電話。もう一人の友人とともに後日の日帰り温泉プラス飲み会の約束が整う。
少し忙しい時期だが、断らない。友と語らうことを忌避するだけの用件なんてそんなにあるものではない。
帰途、あの橋脚を撮した近くの清水川に立ち寄る。もともとは自噴する箇所もあり、私の子供の頃はきれいな川だったが、高度成長期にはどぶ川と化し、いろいろ曲折もあってやっと蘇った川だ。今では鮎も遡上する。
小橋の上から見ていると、たぶん白ハエたちだろう、体の大きい雄が、時折、婚姻色の虹色をきらめかせて雌に迫る。雌たちは、「アラ、あんまり私をお安く見ないでね」とするりと体をかわす。あちらでも、こちらでも・・・。
するとそのとき、体長60センチほどの真鯉が悠然と姿を現す。
今まで三々五々戯れていた小魚たちがそれを追う。鯉は岸近くの叢(くさむら)に頭を突っ込み、その後、ブハッと息を吐く。そのとき一帯に濁りのようなものが沸き立つ。小魚たちはそこへ突進する。おそらくその濁りとともに何か微生物たちが拡散されるのだろう。
田圃での耕耘機のあとに群がるムクドリやカラスを連想した。
かくして私の半日の旅は終わった。
全く触れなかったが、当初に述べた二つの用件を無事クリアーしたことはいうまでもない。
<余談>
柳ヶ瀬商店街を歩いていたら、車椅子のおばさんに、「ちょっとお兄さん、手を貸してくれ」と頼まれた。
用件は簡単だ、「そこへ入ろうとしてるんだが入られへん」。つまり、ドアを開けてくれということなのだ。
ガラスの大きい戸である。しかし私が手がけてもびくともしない。
中に若い人たちがいるので、ドンドンとガラスを叩いた。
すると彼らは、さかんに右の方を指さす。
そちらへ行ってみると、そこに正規の出入り口があり、私が開けようとしていたのは大きな窓(といっても開ければ出入り可能)だったことが分かる。
車椅子のおばさんをそちらへ押して行き、店内に入れる。
おばさんは「兄ちゃん、親切にありがとうな」と礼をいう。
しかしだ、いくら車椅子のおばさんが出入り口を間違えたからといって、指さすだけで全くわれ関せずというのはどういうことだ。とんできて正しい入り口へ導くことをなぜしないのか。間違えたお前が悪いのだということなのか。
マニュアル社会の気味悪さのようなものを見てしまった。
こうなったら、うかうかぼけてはいられない。
などと書くと気ままな旅に出たようだが、たった半日の外出である。
行方も二箇所、つまり二つの用件については決まっている。しかし、それも何時にと決められているわけではないので、どのルートをとり、どこへ立ち寄ろうとも自由である。しかも、自転車だから、ここぞという箇所で勝手に止めて時間を過ごせる。
もう真夏並みの暑さだ。一昨年、この地方が40度近くになった折、やはり自転車でぶらぶらしていて軽い熱中症にやられた(半日のダウン)ことを思い出し、帽子を被り、それに備えた。
こういう時には多少遠回りしても、いつも通らない道を通るに限る。
そのせいで、早速今では珍しい光景に出会う。
傘を干しているのだ。
傘を干すといっても雨に濡れたそれを干しているわけではない。
製造過程の途中での乾燥作業なのだ。
主とおぼしき人がいたので、写真を撮らせてもらいたい旨告げたら、「今日はこれだけしか干してないから、もっとたくさん干してあるときに来なければ」といいながらも承諾してくれる。
実は前にここを車で通りかかり、カラフルな何本かの傘が干してあるのを目撃したことがあるのだ。車一台しか通れないような路地なので、改めてと思っていて場所も定かでないほど忘れてしまっていたのだ。今日ここへ来合わせたのもまったくの偶然であった。
子供の頃育った岐阜の加納地区は、全国で名だたる和傘の産地であった。天候のいい日には、空き地という空き地のいたるところに傘が干してあった。そんな近くでキャッチ・ボールでも始めようものなら、どこからともなく大人たちが飛んできて、「コラッ」と追っ払われるのが常であった。
それらの光景は、昭和の30年代に入り、洋傘が主流になるにつれて次第に消えていってしまった。だからこそ懐かしいさがいっぱいなのだ。
ここへは、もっとたくさん、カラフルなものが干してある頃を見計らって再訪したいものである。
この写真だけではなんだか分からないだろう。
実はこれ、下の写真の左端に褐色に見えている部分なのである。
上を走っている電車は、名古屋鉄道(通称名鉄)名岐本線であるが、その橋脚なのである。
なぜこんなものを撮したかというと、この部分のみ、とても古いからである。
おそらく、旧名古屋鉄道が美濃電気軌道と合併し、名岐本線が開通した1935年(昭和10年)以来のものではないかと思われる。
ではなぜこんなところに橋脚があるかというと、かつてJRの東海道線、高山線が下を走り、それをまたいで名鉄線が走っていたからである。ところが1996(平8)年、JR岐阜駅並びに各線が高架化され、今では名鉄線の上をJRが走っている。
つまり、かつては一階をJR、二階を名鉄だったのが、今では三階をJRということになったわけである。
従って、この古い橋脚は、そうしたかつての経緯を物語る証人としてここにひっそりと佇んでいるわけである。
いつかは撮してやろうと思っていたのだが、それが果たせてよかった。もっともこんなことに気をとめる暇人は私ぐらいであろうから、こうして記録してもなんの意味もないのかも知れない。しかし、この煉瓦積みの橋脚は、私がそこを通るたびに、「俺を撮せ」と迫ってきたのは事実なのだ。繰り返す。撮してやれてよかった。
話はいきなり柳ヶ瀬商店街へと飛ぶ。
平日の午後の柳ヶ瀬はママチャリ・ロードである。かくいう私もその仲間。
せめてもの賑わいに飾られた手作りの七夕を撮していたら、その陰から不意に美人が現れた。
「あなた、べっぴんさんだからちゃんとカメラに入ってくれたらよかったのに」と声をかけたら、「アラ、やだ」と笑うしぐさと目つきが艶っぽい。思わずその人について行きたくなった。
その後、高校時代の同級生がやっている果物屋に立ち寄る。
あいにく配達中とかで彼はいない。待っているほどの用件もないので、「よろしく」と奥さんに告げて立ち去る。
夕刻、彼から電話。もう一人の友人とともに後日の日帰り温泉プラス飲み会の約束が整う。
少し忙しい時期だが、断らない。友と語らうことを忌避するだけの用件なんてそんなにあるものではない。
帰途、あの橋脚を撮した近くの清水川に立ち寄る。もともとは自噴する箇所もあり、私の子供の頃はきれいな川だったが、高度成長期にはどぶ川と化し、いろいろ曲折もあってやっと蘇った川だ。今では鮎も遡上する。
小橋の上から見ていると、たぶん白ハエたちだろう、体の大きい雄が、時折、婚姻色の虹色をきらめかせて雌に迫る。雌たちは、「アラ、あんまり私をお安く見ないでね」とするりと体をかわす。あちらでも、こちらでも・・・。
するとそのとき、体長60センチほどの真鯉が悠然と姿を現す。
今まで三々五々戯れていた小魚たちがそれを追う。鯉は岸近くの叢(くさむら)に頭を突っ込み、その後、ブハッと息を吐く。そのとき一帯に濁りのようなものが沸き立つ。小魚たちはそこへ突進する。おそらくその濁りとともに何か微生物たちが拡散されるのだろう。
田圃での耕耘機のあとに群がるムクドリやカラスを連想した。
かくして私の半日の旅は終わった。
全く触れなかったが、当初に述べた二つの用件を無事クリアーしたことはいうまでもない。
<余談>
柳ヶ瀬商店街を歩いていたら、車椅子のおばさんに、「ちょっとお兄さん、手を貸してくれ」と頼まれた。
用件は簡単だ、「そこへ入ろうとしてるんだが入られへん」。つまり、ドアを開けてくれということなのだ。
ガラスの大きい戸である。しかし私が手がけてもびくともしない。
中に若い人たちがいるので、ドンドンとガラスを叩いた。
すると彼らは、さかんに右の方を指さす。
そちらへ行ってみると、そこに正規の出入り口があり、私が開けようとしていたのは大きな窓(といっても開ければ出入り可能)だったことが分かる。
車椅子のおばさんをそちらへ押して行き、店内に入れる。
おばさんは「兄ちゃん、親切にありがとうな」と礼をいう。
しかしだ、いくら車椅子のおばさんが出入り口を間違えたからといって、指さすだけで全くわれ関せずというのはどういうことだ。とんできて正しい入り口へ導くことをなぜしないのか。間違えたお前が悪いのだということなのか。
マニュアル社会の気味悪さのようなものを見てしまった。
こうなったら、うかうかぼけてはいられない。