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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「一億総中流」始末記 (付)当世阿呆陀羅経

2015-12-19 15:13:51 | 日記
 写真は内容と関係ありません。近影のものをアトランダムに。

 「一億総活躍」という上からのスローガンに触発されて、「一億火の玉」、「一億玉砕」、「一億総懺悔」、「一億総白痴化」などを見てきたが、残るは「一億総中流」であろうか。

 これは確か、1970年代の後半からいわれ始めた言葉で、ある意味、高度成長期から続いた好況感やそれを裏付ける経済指標もある。しかし、国民全体が主観的に抱いた幻想的な自己確認、その大多数が、自分は中流階級に属すると考えたことにこそ問題があったように思う。
 そうした意識は、ジャパン・アズ・ナンバーワンという80年代のそれにつながり、日本人が国際的に傲慢になってゆく下地が作られたといえる。

           

 もはや完全に「戦後」を脱却したという意識は、戦争そのものを忘却の彼方へ押しやり、そこで一体何があったのかも都合よく加工されるという今日まで続く歴史修正主義の基盤ができたといえる。
 いま、中国などで起こっている新興ゆえの歪みの殆どをこの時期この国も経験している。ショッピングを主体にした海外旅行(爆買いという言葉はなかったのでまとめ買いとでもいおうか)、川崎や四日市で起こった深刻な大気汚染、各都市を襲ったスモッグ禍、河川、海洋の汚染と公害などなどがそれである。

 なんにもわからないそこらのおじさんやおばさんまでが株を持ち、電電公社の民営化に伴うNTT発足時には当初100万円前後で売りだされた株価が2ヶ月後には318万にまで高騰したものの、当然のこととしてその後は下がり続ける一方で、素人投資家はていよくカモにされるという事態。もちろんこれは、NTT株に限った話ではない。投資信託なども含め、にわか投資家が増えたのもこの頃であった。

           

【以下、一億総中流社会の顛末を阿呆陀羅経風に・・・】
 
 生兵法は怪我のもと、痛いお灸を据えられて、やっと悟ったとき遅く、もはやバブルの崩壊期、「お祭り済んで日が暮れて~」、はっと目醒めて見回せば、「一億すべて中流」は、夢のまた夢、泡の夢。世界を席巻したはずの、日本的なる経営も、あっという間に崩壊し、終身雇用や年功の序列制度に守られて、まったりしていた勤め人、競争社会の荒波に放り出されて窓際や、肩叩きをも日常の、沙汰となり果ておのが身が、格差社会のただ中に、突き落とされたをやっと知る。
 こうなりゃ頼みは組合と、見回したれどそれらしき、ものはとっくに成仏し、あるは政権・経営者・連合名乗る団体の、三位一体足並みを、揃えた管理の包囲網。

 終身雇用はいやだよね、自由な職業選択と、豪語していたフリーター、気がつきゃただの失業者。ピンはね業者の絶好の、カモとなりはてネギ背負う。
 経営夢見て地位を捨て、前途洋々大海に、乗り出してみた「脱サラ」の、船は笹舟、木の葉舟。名を成したるは一握り。「脱サラ」というはようするに、所詮「脱落サラリーマン」。せいぜい舵取る難破船、板ご一枚その下は、借金地獄かホームレス。

           

 お上推奨口入れ稼業、そのピンハネに耐えながら、辿り着いたが真っ黒け、「お主もようやる」越後屋の、ブラック企業の労働者。じっと手を見るまでもなく、「あゝ働けど、働けど」、命すり減るばかりなり。
 かくなる上は生活の保護を受けんと窓口に、至れば水際大作戦、ご用のない者通しゃせぬ。通ればこんどは監視の眼。子供の小遣い貯金すら、あげつらわれてチクられて、一家心中も自己責任。チンチン電車が走るのも、郵便ポストが赤いのも、カラスの羽が黒いのも、み~んな私が悪いのよ。こんな世間に誰がした・・・・。


 と、まあ、こんな次第が「一億総中流の」顛末。しかし、上記で述べたように、その現実はまっすぐに今日の私たちの現実を規定している。

           

 ここらで、三回ほどにわたって述べてきた一億シリーズを締めくくらねばなるまい。
 「一億」というのが日本の人口の概略を示すものであると同時に、そこに所属する(この所属はその折々の状況に任される。その都度、そこへ組み込まれたり排除されたりするマイノリティがいる)「すべからくの者」を指し示していることはすでに述べた。

 日本というこの限定された領域内にも、実に様々な人たちがいて、当然多種多様な生活、文化や趣向をもっている。それらを「すべからく」でくくることなどはできないということが、過去からの「一億総◯◯」のスローガンは示している。それに迎合し、それに合わせようとする人々は、意識はしなくとも、そこへと包摂されないマイノリティを除外する側に加担してしまう結果となるようだ。

 ということは、そこへと包摂される人たちの複数性、多様性を見ないということでもある。人々を、そこで規定された「すべからく」のうちに閉じ込め、それから逸脱する者たちへの無言の抑圧にもなりかねないということである。これの極限が、全体主義であることは見やすいところである。

           

 このシリーズでの第一回でも書いたが、現今の「一億総活躍」というスローガンもわかったようでわからない。一般的、抽象的、かつ無内容な気もするが、ただひとつ具体化しそうなのが、収入の乏しい老人に3万円を支給するというものだ。老人たちが、このお金を使って市場を潤すという目論見のようだが、それは老人たちが「活躍」したことになるのであろうか。
 ここでは老人たちはマスとしての消費者としてしか見られていない。消費という事態そのものが、今日では生産に付随する行為としてしか見られていない。老人たちは、行為する主体としてよりは、むしろ影の主体である生産者や流通システムに奉仕し、それを下支えする客体的な対象としてしか取り扱われていない。

 早い話が参院選前の税を使った買収運動にほかならないのだから、もともと真面目なコンセプトなど一顧だにされていないのだが、いずれにしても、「一億総◯◯」という言辞を弄ぶ者は、その一億のうちにある人間の複数性をまったく見ないもので、素直に迎合するわけにはゆかない。
コメント (2)
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