*入院初日
入院する病院までは約1.5キロ、別に足が悪いわけではないので、必要なものをつめこんだキャリーバックをゴロゴロ引っ張って徒歩で行く。
もう2ヶ月もしたら満開になる川沿いの桜並木を行く。
途中、梅の群落があり、白梅は蕾が膨らみ、もうポツポツ開いているものもある。中に1本、薄紅色のものがあって、これは花が早く、もう二分咲きぐらいか。
退院の頃にはかなり美しくなったいることだろう。
その際、ここを通りかかるのが楽しみだ。
午後に入院。
明日の施術のための検査や確認が主体だからとくに治療はない。
早速、手首に認識票をつけられる。これでこの牧場の子羊になった気分。
二の腕から手首にかけてのギブスを回転式カッターでパッさりと切り取る。このカッターよく出来ていて、固いものは切るが柔らかいものは切らないとのこと。それでも万一肌に触れたらと少し不安。
看護師さんが二人がかりでかなり苦労していたが、やがてぱっかりと上下に割れる。
ほぼ10日ぶりに自分の左腕を見る。腫れぼったくて色も冴えない。
シャワーで流し、洗浄する。
これでギブスが取れたわけではない。上下二つにわかれたものの間に再び腕を収めて包帯で巻いてゆく。
ただし明日の術後は、もっとコンパクトなものに変わるそうだ。
病院の北側は加納城址 子供の頃ここでよく遊んだ
*二日目
いよいよ手術だ。
6時半に目が覚めた。どこかへ出かける用件がない限りこの時間にはあまり起きない。
別に興奮しているからではない。昨夜は9時半消灯、疲れていたせいかすぐ眠りに入れた。しかし、2時間半も寝たところで例の途中覚醒、ここで持参した睡眠剤を飲むつもりだったが、それが見当たらぬ。あまりごそごそしては同室者の迷惑になるので諦めて横になったがやはり1時間ほど悶々としても寝付けない。
意を決して、当直の看護師さんに依頼し、睡眠剤をもらう。しばらくして寝付くことができた。
立会人の息子が春日井から駆けつけてくれる。
いよいよ手術室へ。執刀の外科医と一言二言。
まずは麻酔薬の注射。首すじから左腕のみに効くように打つという。
「意識は」と尋ねたら「あります」とのこと。
二の腕から手首、指先へとしびれが進み、左手全体のの感覚が無くなる。
それでもなお、しばらく様子を見てオペ開始。
メスが入る瞬間も何もさっぱ分からない。
ただ、途中、ずれた骨を元へ戻す段階、それを金具で固定する段階はかなりの痛みを伴って知覚できる。
それが過ぎた段階で、意識が朦朧とし、眠ってしまった。
目覚めたのは医師たちが何やら雑談をしているとき。
「終わったのですか」「はい終わりました。何か違和感は?」「とくにありません」
病院の東側 私の病室から一番近い窓
病室に戻る。
左手には完全麻痺、まるで丸太ん棒を吊り下げているようなのだ。
これと似た経験をしたことがある。今から十数年前、脳梗塞を発病した折だ。あのときも左腕だった。
もう一つ不思議なことがある。左腕の在り処を思い浮かべると、その位置は実際の在り処とは違うことだ。メルロー・ポンティが、「知覚の現象学」かなんかで、戦争や事故で手足を失った人たちが、実際にはないその手足の指先などの痛みや痒みを感じると述べていたのを思い出した。いまの私は、それに似た擬似経験をしているのだ。
この左手の感覚は、今日いっぱい続くようだ。
それが去ったら、痛みが襲ってくるのだろうか。
上記とおなじ窓、同じアングルでの日の出
*三日目
術後の痛みは夜間にやってきた。9時過ぎぐらいから指先の感覚が戻ると同時に、じんじんと痛みが。しかし、激痛ではないし、これくらいは想定内。問題は、こうした間断ない刺激を抱えたまま睡眠が可能かどうかだ。
9時半、睡眠薬を飲んで就寝。やはり1時間眠って2時間目が冴えたままの繰り返し。
手洗いにたって、東の空を見たら山際に真っ赤な朝焼けが。元気な時ならカメラを構えるのだがそんな気にはなれない。ベッドに戻って横になる。やっと少しまどろんだかと思ったら、まわりの朝の気配に目が覚める。
結局昨夜は、よくて3時間の就眠だ。頭がどんよりと重い。
しかし、特にしなければならないこともないし、この辺が病院ぐらしのいい点だ。
なお、寝付かれず悶々としている間に、小論文と小説の構想をひとつずつ考えついたのだが、こうしたものは得てしてものにならないものだ。
しかし、メモだけはしておこう。
・「権力の空間・空間の権力」 書評
・ 小説 「テレパ金属同盟」
ここまで書いて、少しまどろむことにする。
やがて、抗生物質の点滴にくるはずだ。
夕刻、高校時代の同級生の訃報が舞い込む。持病があるのは聞いていたが、それによるのではなく、心臓近くの損傷による突然死のようだ。
同クラスで、とりわけ親しくしていたわけではないが、かつては時折集まる数人のうちに入っていた。それらのうち、私はゴルフをしないので、ここんところやや疎遠であった。それでもかねての付き合い、通夜や葬儀には行けないが、香典や花輪が必要なら一口乗る旨告げたが、「入院中のやつからはなぁ」と電話してきた友人。退院してから連絡することにして、ひとまずは保留。
ところで、昨夜眠れぬままに考えていた「権力の空間・空間の権力」の書評、なんとか短文にまとめることができた。
昨夜同様、睡眠薬を飲んで就寝したのが9時半、0時に目覚めたまま寝つかれないのでこれを書いている。昨夜は、都合3錠の睡眠薬を飲み、午前中ぼんやりしていたので、今夜は疲れるまで起きていて、もう1錠だけ睡眠薬を飲んで寝る作戦。
*四日目
入院も四日目になるとあまり変化もなく書くことも少なくなる。
手術以来、続いていた主に抗生物質の点滴が今日で終了。
その代わり、リハビリが本格化。
骨折以来、動かしていない左手の指や肩、肘などが硬化しないためのもので、これらは部分的に術後すぐに行われていたのだが、今日からはそれに加えて、その他体全体を対象としたものになる。ひとつは、歩行や階段の上下、バランス感覚などの全身運動だが、もうひとつは体の揉みほぐしである。
毎日食べてはじっとしている生活に、ちょうどいい運動の機会だ。
大部屋でいいといったのだが、空いていなくて二人部屋にいる。
もう一人は92歳の男性で、内科系統での入院らしい。面会に来た家族や、リハビリで訪れる若い療法士との会話などで、どうやら88歳の連れ合いとの二人暮らしで、むしろ、彼のほうが老妻を介護し面倒を見る立場らしい。老々介護の局地だ。
そんな彼が、軍隊に行った経験があるというのを小耳に挟んだので、これまで会釈程度だったのを、思い切って話しかけてみる。
彼によれば、入隊が終戦近かったため、外地へやられる前に敗戦になり、したがって実際の戦闘経験はないとのこと。ただし、彼より少し前に入営した者はどんどん南方にやられ、多くの戦死者を出したという。ちなみに、彼の同級生40名のうち、戦死者は10名にのぼるという。実に25%の20歳前後の若者が、その年齢で命を絶たれているのだ。
夜眠れない反動で、昼間のうたた寝が多い。それがまた、夜の不眠を誘う。
しかし、昼間仕事をしているのではないから、トータルで睡眠時間が満たされればと居直ることとする。
実は、一年間かかって読んできたドストエフスキーの『悪霊』(岩波文庫で4分冊)を入院初日に読了し、忘れないうちに感想文をと思って着手。かなりのボリュームになってしまった。ブログに乗せても誰も読まないだろうなと思う。
*五日目
この五日間、敢えて新聞、TV、ネットなどの情報に触れないようにしてきた。
だから、世の中で何が起こっているのかはさっぱりわからない。
一つだけ例外的に触れたニュースがある。足慣らしで歩いているとき、休憩室でTVを観ている人がいて、その後ろを通りかかったとき、何やら識者たちがしかめっ面で覚醒剤云々といっている。いまさら何をと思ったが、テロップに清原がパクられたとあったのでヘエと納得がいった。まあ、これを大騒ぎしているようでは並べて世間は平和なのだろう。
明日、午前に執刀医の診察があるとのこと。その結果次第で退院が決まるが、その後、かなりの間、リハビリが続きそうだ。難儀なことだ。
ただし、早くネットの繋がる環境に復帰したい。同人誌関連で為すべきことが山積している。
*六日目
起床しても眠い。昨夜も実質三時間ぐらいしか眠れなかった。
さて、今日退院できるものかどうか。すべて午前の執刀医の判断にかかっている。
PCの中に取り込んである音楽から、モーツァルトのモテット「エクスルターテ・イウビラーテ」(K165)を聴きながらこれを書いている。
それらがあることをもっと早く気付けばよかった。
一応、情報からは自分を遮断したが、音楽から遠ざける必要はなかったのだ。
今日も天候は良さそうだ。
もし退院出来たら、帰りには来る途中で見た梅の群落をぜひ見なければ。
あれからどれくらい花開いたかが楽しみだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして退院することができた。
花開いた梅を見ることができた。
入院する病院までは約1.5キロ、別に足が悪いわけではないので、必要なものをつめこんだキャリーバックをゴロゴロ引っ張って徒歩で行く。
もう2ヶ月もしたら満開になる川沿いの桜並木を行く。
途中、梅の群落があり、白梅は蕾が膨らみ、もうポツポツ開いているものもある。中に1本、薄紅色のものがあって、これは花が早く、もう二分咲きぐらいか。
退院の頃にはかなり美しくなったいることだろう。
その際、ここを通りかかるのが楽しみだ。
午後に入院。
明日の施術のための検査や確認が主体だからとくに治療はない。
早速、手首に認識票をつけられる。これでこの牧場の子羊になった気分。
二の腕から手首にかけてのギブスを回転式カッターでパッさりと切り取る。このカッターよく出来ていて、固いものは切るが柔らかいものは切らないとのこと。それでも万一肌に触れたらと少し不安。
看護師さんが二人がかりでかなり苦労していたが、やがてぱっかりと上下に割れる。
ほぼ10日ぶりに自分の左腕を見る。腫れぼったくて色も冴えない。
シャワーで流し、洗浄する。
これでギブスが取れたわけではない。上下二つにわかれたものの間に再び腕を収めて包帯で巻いてゆく。
ただし明日の術後は、もっとコンパクトなものに変わるそうだ。
病院の北側は加納城址 子供の頃ここでよく遊んだ
*二日目
いよいよ手術だ。
6時半に目が覚めた。どこかへ出かける用件がない限りこの時間にはあまり起きない。
別に興奮しているからではない。昨夜は9時半消灯、疲れていたせいかすぐ眠りに入れた。しかし、2時間半も寝たところで例の途中覚醒、ここで持参した睡眠剤を飲むつもりだったが、それが見当たらぬ。あまりごそごそしては同室者の迷惑になるので諦めて横になったがやはり1時間ほど悶々としても寝付けない。
意を決して、当直の看護師さんに依頼し、睡眠剤をもらう。しばらくして寝付くことができた。
立会人の息子が春日井から駆けつけてくれる。
いよいよ手術室へ。執刀の外科医と一言二言。
まずは麻酔薬の注射。首すじから左腕のみに効くように打つという。
「意識は」と尋ねたら「あります」とのこと。
二の腕から手首、指先へとしびれが進み、左手全体のの感覚が無くなる。
それでもなお、しばらく様子を見てオペ開始。
メスが入る瞬間も何もさっぱ分からない。
ただ、途中、ずれた骨を元へ戻す段階、それを金具で固定する段階はかなりの痛みを伴って知覚できる。
それが過ぎた段階で、意識が朦朧とし、眠ってしまった。
目覚めたのは医師たちが何やら雑談をしているとき。
「終わったのですか」「はい終わりました。何か違和感は?」「とくにありません」
病院の東側 私の病室から一番近い窓
病室に戻る。
左手には完全麻痺、まるで丸太ん棒を吊り下げているようなのだ。
これと似た経験をしたことがある。今から十数年前、脳梗塞を発病した折だ。あのときも左腕だった。
もう一つ不思議なことがある。左腕の在り処を思い浮かべると、その位置は実際の在り処とは違うことだ。メルロー・ポンティが、「知覚の現象学」かなんかで、戦争や事故で手足を失った人たちが、実際にはないその手足の指先などの痛みや痒みを感じると述べていたのを思い出した。いまの私は、それに似た擬似経験をしているのだ。
この左手の感覚は、今日いっぱい続くようだ。
それが去ったら、痛みが襲ってくるのだろうか。
上記とおなじ窓、同じアングルでの日の出
*三日目
術後の痛みは夜間にやってきた。9時過ぎぐらいから指先の感覚が戻ると同時に、じんじんと痛みが。しかし、激痛ではないし、これくらいは想定内。問題は、こうした間断ない刺激を抱えたまま睡眠が可能かどうかだ。
9時半、睡眠薬を飲んで就寝。やはり1時間眠って2時間目が冴えたままの繰り返し。
手洗いにたって、東の空を見たら山際に真っ赤な朝焼けが。元気な時ならカメラを構えるのだがそんな気にはなれない。ベッドに戻って横になる。やっと少しまどろんだかと思ったら、まわりの朝の気配に目が覚める。
結局昨夜は、よくて3時間の就眠だ。頭がどんよりと重い。
しかし、特にしなければならないこともないし、この辺が病院ぐらしのいい点だ。
なお、寝付かれず悶々としている間に、小論文と小説の構想をひとつずつ考えついたのだが、こうしたものは得てしてものにならないものだ。
しかし、メモだけはしておこう。
・「権力の空間・空間の権力」 書評
・ 小説 「テレパ金属同盟」
ここまで書いて、少しまどろむことにする。
やがて、抗生物質の点滴にくるはずだ。
夕刻、高校時代の同級生の訃報が舞い込む。持病があるのは聞いていたが、それによるのではなく、心臓近くの損傷による突然死のようだ。
同クラスで、とりわけ親しくしていたわけではないが、かつては時折集まる数人のうちに入っていた。それらのうち、私はゴルフをしないので、ここんところやや疎遠であった。それでもかねての付き合い、通夜や葬儀には行けないが、香典や花輪が必要なら一口乗る旨告げたが、「入院中のやつからはなぁ」と電話してきた友人。退院してから連絡することにして、ひとまずは保留。
ところで、昨夜眠れぬままに考えていた「権力の空間・空間の権力」の書評、なんとか短文にまとめることができた。
昨夜同様、睡眠薬を飲んで就寝したのが9時半、0時に目覚めたまま寝つかれないのでこれを書いている。昨夜は、都合3錠の睡眠薬を飲み、午前中ぼんやりしていたので、今夜は疲れるまで起きていて、もう1錠だけ睡眠薬を飲んで寝る作戦。
*四日目
入院も四日目になるとあまり変化もなく書くことも少なくなる。
手術以来、続いていた主に抗生物質の点滴が今日で終了。
その代わり、リハビリが本格化。
骨折以来、動かしていない左手の指や肩、肘などが硬化しないためのもので、これらは部分的に術後すぐに行われていたのだが、今日からはそれに加えて、その他体全体を対象としたものになる。ひとつは、歩行や階段の上下、バランス感覚などの全身運動だが、もうひとつは体の揉みほぐしである。
毎日食べてはじっとしている生活に、ちょうどいい運動の機会だ。
大部屋でいいといったのだが、空いていなくて二人部屋にいる。
もう一人は92歳の男性で、内科系統での入院らしい。面会に来た家族や、リハビリで訪れる若い療法士との会話などで、どうやら88歳の連れ合いとの二人暮らしで、むしろ、彼のほうが老妻を介護し面倒を見る立場らしい。老々介護の局地だ。
そんな彼が、軍隊に行った経験があるというのを小耳に挟んだので、これまで会釈程度だったのを、思い切って話しかけてみる。
彼によれば、入隊が終戦近かったため、外地へやられる前に敗戦になり、したがって実際の戦闘経験はないとのこと。ただし、彼より少し前に入営した者はどんどん南方にやられ、多くの戦死者を出したという。ちなみに、彼の同級生40名のうち、戦死者は10名にのぼるという。実に25%の20歳前後の若者が、その年齢で命を絶たれているのだ。
夜眠れない反動で、昼間のうたた寝が多い。それがまた、夜の不眠を誘う。
しかし、昼間仕事をしているのではないから、トータルで睡眠時間が満たされればと居直ることとする。
実は、一年間かかって読んできたドストエフスキーの『悪霊』(岩波文庫で4分冊)を入院初日に読了し、忘れないうちに感想文をと思って着手。かなりのボリュームになってしまった。ブログに乗せても誰も読まないだろうなと思う。
*五日目
この五日間、敢えて新聞、TV、ネットなどの情報に触れないようにしてきた。
だから、世の中で何が起こっているのかはさっぱりわからない。
一つだけ例外的に触れたニュースがある。足慣らしで歩いているとき、休憩室でTVを観ている人がいて、その後ろを通りかかったとき、何やら識者たちがしかめっ面で覚醒剤云々といっている。いまさら何をと思ったが、テロップに清原がパクられたとあったのでヘエと納得がいった。まあ、これを大騒ぎしているようでは並べて世間は平和なのだろう。
明日、午前に執刀医の診察があるとのこと。その結果次第で退院が決まるが、その後、かなりの間、リハビリが続きそうだ。難儀なことだ。
ただし、早くネットの繋がる環境に復帰したい。同人誌関連で為すべきことが山積している。
*六日目
起床しても眠い。昨夜も実質三時間ぐらいしか眠れなかった。
さて、今日退院できるものかどうか。すべて午前の執刀医の判断にかかっている。
PCの中に取り込んである音楽から、モーツァルトのモテット「エクスルターテ・イウビラーテ」(K165)を聴きながらこれを書いている。
それらがあることをもっと早く気付けばよかった。
一応、情報からは自分を遮断したが、音楽から遠ざける必要はなかったのだ。
今日も天候は良さそうだ。
もし退院出来たら、帰りには来る途中で見た梅の群落をぜひ見なければ。
あれからどれくらい花開いたかが楽しみだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして退院することができた。
花開いた梅を見ることができた。