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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「名もない花」・環境・平和 Ⅱ

2017-04-29 11:53:43 | よしなしごと
  写真は目に止まった植物のある光景

 前回は、「名もない」とか「雑草」、「雑木」といわれるものたちが、たまたま私たちがその名を知らないだけであるということ、また名を知らないということの背景のひとつに、それらが商品として重用されていないからではないかなどと考えてみました。
 今回はその続きです。


          

 こうしてみてくると、私たちが目にする花景色を始めとする自然の風景は、そうした商品化を経由したもので、もはや純然たる自然ではないことに気づかざるをえない。
 私たちが愛でている桜は、その大半がソメイヨシノのクローンで、150年ほど前にヒットした商品の全国的な流通の痕跡であるし、それ以前の桜の古木なども淡墨桜のように生き延びることによって付加価値がつき、観光資源になったものということになる。

          

 私たちがこよなく愛する里山の風景にしても、針葉樹の林は木材生産の畑のようなものであるし、竹林もまた竹材や筍の採取場である。そのもとに広がる畑や水田はいうまでもなく食品産出の場として人為的に開墾されたものである。無垢の自然などというものはもはや観念の世界のものでしかない。
 こんなことを書いたからといって、花や草木、自然を愛する人たちにイチャモンを付けているわけではない。
 私たちが美しく好ましいと思う花や草木、そして景観は、長い歴史を経由するなかで、自然と人為の絶妙のバランスの上に成り立っているのだという事実を述べているに過ぎない。自然を愛おしむということはそういうことであり、私もまた、そのようなものとして周辺の自然と親しんでいる。

          

 しかし、過度の商品化やそれに付随する効率化の推進は、いまやそれすらも危うくしつつあるようだ。
 例えば、田んぼと道路の境界にあるいわゆる法面(のりめん)はもともと人工的に作られた斜面ではあるが、私の周辺では、それ自身がコンクリートの垂直な壁面に取って代わられつつある。
 おそらくそれによって田に張る水の管理を効率的にし、併せて斜面を垂直にすることにより、道路幅を広げるということであろう。

 それによって失われるものは、そこに棲息していたタンポポ、スミレ、ノアザミ、ハルジオン、カタバミ、スカンポ、ヘビイチゴ、ツクシ、ノビルなどの植物群と、それと共生していた昆虫などの小動物たちであろう。
 商品価値の低いものは、より高位の価値や効率のためにどんどん失われてゆく。

          

 これらの大きな連鎖は、今は地球規模で行われつつある。
 だから、究極のエコロジーは人類が滅亡することだという極論もあるようだが、それは違うだろう。その欲望のために自然環境を改変してやまない人間の動向を、どのように理性的に制御しうるかがエコロジーの課題だからだ。
 同様の論理は平和論にも相当する。永遠平和のためには最終戦争で人類が滅亡すればいいのだが、そのときには平和をそれと確認し、それを享受する主体そのものもいなくなる。

          

 人間は、他の生物の自然的「欲求」を超えた無限に発展し続ける過剰な「欲望」をもったばかりに、環境や平和にとっては究極の鬼子として存在している。
 この鬼子が、危険な綱渡りをしながら、どのようなバランスを、自然や世界のために、そして自らが生き延びるために実現しうるか、それが21世紀の見ものであろう。そのためには、20世紀に人類が何をしてきたのかを参照すべきなのだが、歴史修正主義者にはその意思も能力もない。したがって彼らに任せれば、人類は綱から転落する他はない。
 いずれの結論に至るにせよ、残念ながら、私はこのドラマの大展開をあとしばらくしか見届け得ないであろう。

          

 大いなる目で眺めたら、金正恩もトランプも、そして私たちも、同じ綱の上でそれぞれのバランスをとるべく懸命に踏ん張っている。しかし、その踏ん張り方に教則はないから、それぞれが思い思いに踏ん張り、それが綱の揺れを大きくしたり相対的に平穏にしたりしている。
 その意味では他者への配慮やその間での対話が今ほど必要なときはないのだが、相変わらず各自がそれぞれ自分の恣意に従って綱の上で踊っているため、その揺れは危険領域に達しているともいわれる。
 
 またまた、草木の話が大脱線してしまった。これも、いたずらに21世紀まで生き延びてしまったせいだとしておこう。
コメント
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