30年前のまぼろしの映画『ゴンドラ』を観た。
観た動機は二つある。
ある映画評のページでは☆一つと、五つに分かれていたりして、俄然、食指をそそられたからである。よし、俺が見極めてやろうという不遜な動機ともいえよう。
今一つはこの映画が30年近く埋もれていて今回がリバイバル上映だということで、しかもこれを撮った監督は、これが処女作で、けっこう評判が良かったにも関わらず、その後劇映画は作らず、もっぱらAVを撮り続け、その数は1,500本にも及ぶという。AV界の黒澤明ともいわれているらしい。
こんなこともあって、ネットで紹介されていた予告編など観るに及び、「ん、これはぜひ観たい」と思うようになった次第なのだ。
映像がいい。ある種実験的とも思えるオーバーラップや歪み・乱れなどが特に前半に集中して出て来るが、それらは決して奇をてらった方法のための方法ではなく、登場人物たちの主観やシチュエーションに根ざす必然的なものなのだ。
それらは、ある意味、映画は映像で見せるというアタリマエのことを実践しているのだということがわかる。だから、後半のある種落ち着いた状況の展開においては、周辺の自然とともにリアルな映像へと落ち着くかのようである。
映画は明快でわかりやすい。登場人物も限定されている。
主人公は孤独な少女(小学5年生)と下北半島出身の窓ガラス拭きを職業とする朴訥な青年の交流なのだが、先にみた映像の変化とともに、前半と後半の演出の差異を見ることができる。
例えば、前半はほとんど棒読みのようであった少女のセリフが、青年との交流の深化につれ、生きた人間の言葉になってゆく。もっとも、映画全般を通じてセリフ自体が少なく、映像に語らせているのはすでに述べたとおりだ。
前半の都会と後半の地方という対比、登場人物の不安定と安定、それらによって演出が異なることも述べたが、その集大成としてのラストシーンは気恥ずかしくなるほどのメルヘンチックなものとして展開される。
この映画が作られたのは1980年代の後半である。
この時期、「戦後」から脱却し、高度成長を成し遂げ、しかもまだバブルは弾けておらず、リーマンショックも経験していない時期で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本人が傲慢に居直り始めた時期である。この頃、東大でも京大でも政党支持率の第一位が自民党になった。ちなみに、私が学生だった60年前後には、自民党支持などという大学生はまともな知性の持ち主として扱ってはもらえなかった。
この映画は、そうした時代状況へのアンチテーゼとして意識的に作られたものではないだろう。しかし、少なくともあの時代の日本人の傲慢さを知っている私からみれば、この映画はそうではない人間の交流を描いている。
それは同時に、この時代を境に、この国から急速に失われてしまったものでもあるだろう。だからそれはメルヘンなのだ。
これは私見であるが、ヨーロッパなどに先駆けてこの国で実現している極右政権は、この1980年台に自己形成をした連中によって担われているようだ。
話が逸れた。映画に戻ろう。
この映画は、監督・脚本の伊藤智生がまだ20代の頃のもので、これが処女作でその後の作品がないということはすでに述べた。その後はTOHJIROという名で1,500本余のAVを撮っているという。これだけのものを撮りながら、彼をそちらへ走らせたものは何か、それがよくわからない。
しかし、物好きな私は、彼のAV作品の片鱗をネットで検索してみたが、それらの映像はかなり凄惨なもので、女性はよがり声というより悲鳴を上げているものが多かった。
ついでに、この映画の主人公の少女(かがり:上村佳子)と青年(良:界健太)を検索してみたが、二人ともこれ以後は映画に出演しておらず、会社員とのこと。それぞれ、雰囲気をもった人だったと思うので少し惜しい気がする。
なお、監督の伊藤智生は、『ゴンドラ』のリバイバルに刺激を受けて、第二作目を撮るといっている。期待に反して駄作になるか、それともAVで培った経験を活かした傑作になるか、観てみたいものである。
*『ゴンドラ』に関しては以下に詳しい。
http://gondola-movie.com/
http://cinefil.tokyo/_ct/17024382
観た動機は二つある。
ある映画評のページでは☆一つと、五つに分かれていたりして、俄然、食指をそそられたからである。よし、俺が見極めてやろうという不遜な動機ともいえよう。
今一つはこの映画が30年近く埋もれていて今回がリバイバル上映だということで、しかもこれを撮った監督は、これが処女作で、けっこう評判が良かったにも関わらず、その後劇映画は作らず、もっぱらAVを撮り続け、その数は1,500本にも及ぶという。AV界の黒澤明ともいわれているらしい。
こんなこともあって、ネットで紹介されていた予告編など観るに及び、「ん、これはぜひ観たい」と思うようになった次第なのだ。
映像がいい。ある種実験的とも思えるオーバーラップや歪み・乱れなどが特に前半に集中して出て来るが、それらは決して奇をてらった方法のための方法ではなく、登場人物たちの主観やシチュエーションに根ざす必然的なものなのだ。
それらは、ある意味、映画は映像で見せるというアタリマエのことを実践しているのだということがわかる。だから、後半のある種落ち着いた状況の展開においては、周辺の自然とともにリアルな映像へと落ち着くかのようである。
映画は明快でわかりやすい。登場人物も限定されている。
主人公は孤独な少女(小学5年生)と下北半島出身の窓ガラス拭きを職業とする朴訥な青年の交流なのだが、先にみた映像の変化とともに、前半と後半の演出の差異を見ることができる。
例えば、前半はほとんど棒読みのようであった少女のセリフが、青年との交流の深化につれ、生きた人間の言葉になってゆく。もっとも、映画全般を通じてセリフ自体が少なく、映像に語らせているのはすでに述べたとおりだ。
前半の都会と後半の地方という対比、登場人物の不安定と安定、それらによって演出が異なることも述べたが、その集大成としてのラストシーンは気恥ずかしくなるほどのメルヘンチックなものとして展開される。
この映画が作られたのは1980年代の後半である。
この時期、「戦後」から脱却し、高度成長を成し遂げ、しかもまだバブルは弾けておらず、リーマンショックも経験していない時期で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本人が傲慢に居直り始めた時期である。この頃、東大でも京大でも政党支持率の第一位が自民党になった。ちなみに、私が学生だった60年前後には、自民党支持などという大学生はまともな知性の持ち主として扱ってはもらえなかった。
この映画は、そうした時代状況へのアンチテーゼとして意識的に作られたものではないだろう。しかし、少なくともあの時代の日本人の傲慢さを知っている私からみれば、この映画はそうではない人間の交流を描いている。
それは同時に、この時代を境に、この国から急速に失われてしまったものでもあるだろう。だからそれはメルヘンなのだ。
これは私見であるが、ヨーロッパなどに先駆けてこの国で実現している極右政権は、この1980年台に自己形成をした連中によって担われているようだ。
話が逸れた。映画に戻ろう。
この映画は、監督・脚本の伊藤智生がまだ20代の頃のもので、これが処女作でその後の作品がないということはすでに述べた。その後はTOHJIROという名で1,500本余のAVを撮っているという。これだけのものを撮りながら、彼をそちらへ走らせたものは何か、それがよくわからない。
しかし、物好きな私は、彼のAV作品の片鱗をネットで検索してみたが、それらの映像はかなり凄惨なもので、女性はよがり声というより悲鳴を上げているものが多かった。
ついでに、この映画の主人公の少女(かがり:上村佳子)と青年(良:界健太)を検索してみたが、二人ともこれ以後は映画に出演しておらず、会社員とのこと。それぞれ、雰囲気をもった人だったと思うので少し惜しい気がする。
なお、監督の伊藤智生は、『ゴンドラ』のリバイバルに刺激を受けて、第二作目を撮るといっている。期待に反して駄作になるか、それともAVで培った経験を活かした傑作になるか、観てみたいものである。
*『ゴンドラ』に関しては以下に詳しい。
http://gondola-movie.com/
http://cinefil.tokyo/_ct/17024382