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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「名もない花」・環境・平和

2017-04-27 11:10:42 | よしなしごと
  写真はいま、私のうちで咲いている植物たちです。

 「名もない花」などといったりすることがある。
 「雑草」とか「雑木」で済ますこともある。
 しかし、名もない花などはない。「雑」という草や木もない。
 あるとすれば、それはまだ人間に知られていないか、そう表現する人たちがその名を知らないことによる。

          

 あらゆるものに名がある、というか、人はあらゆるものに名を付ける。
 名付けることはそれを人が支配するということだ。これまで知られていなかったものが発見された途端に人はそれに名をつける。発見されるということは名付けられることであり、その逆も真で、名付けられることが発見されるということなのだ。

 人はそれを名付け、分類の系統樹の中に位置を与える。こうしてそれは人間の支配下に繰り入れられる。これによってこれまで「得体のしれなかった不気味なもの」は、人知の在庫に加えられ、人に安堵を与える。

             

 だから、私がそれを知っているかどうかにかかわらず、ものにはすべからく名前があるということである。
 各分野にわたって、人がどの程度それらの名を知っているかにはもちろん個人差があり、それはその人が過ごしてきた諸体験によるのだろう。

          

 その分野の専門家やマニアはまずそれらの名を広く知っている。花好きの人は花の名前をたくさん知っている。
 植物学者は道をゆく場合にも殆どの草木の名前を知っているだろう。彼らにとっては雑木や雑草はないといってもいい。

             
 
 そうした学者やマニアではなくとも、各分野にわたってある程度のものの名は一般的に知られている。
 樹木でいったら、松、杉、檜、桜、梅、楓、公孫樹などは知られている方であろう。はじめの三つは建材の原料として、その他は主として観賞用として。
 桜や梅は果実としても知られていて、その仲間には林檎や柿、柑橘類などもある。

 こうした比較的知られているものは、私たちの生活との接点が多いということなのだが、もう一歩突っ込んでみると、そのそれぞれが商品価値をもっているということであろう。それらは、私たちの生活の中に商品として登場することでとみにその名を知られるところとなったといえよう。

          

 花についても同様のことがいえよう。
 私達が比較的よくその名を知っている花は商品価値があるものが多く、花屋や植木屋の店頭に並ぶものが多い。
 ただしこれにも歴史的変遷があって、最近、花屋の店頭に並ぶそれは、私の子供の頃と比べて全く様相を異にする。いわゆる外来種の増加である。
 もはや私にはとんと分からないが、現役の花好きの人たちはそれらも含めて実によく知っている。それらを知ることなくして賢い消費者にはなりえないからであろう。
                 
                    (この続きは明後日・土曜日に掲載)
コメント
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