私たちが訪れた大垣郊外の地は、いわば濃尾平野の西の突き当りで、いまや冬ざれた田畑のなかに集落が点在する片田舎にすぎないのだが、かつてはここに国府がありその近くには国分寺、国分尼寺、そして美濃一之宮(南宮大社)があるという、往時の県庁所在地だったような箇所なのである。
在りし日の国分寺のジオラマ
それらがすべて、遺跡となって点在するのみで、かつての賑わいを想像すべくもないのだが、ただし、この地が、かつても今も、交通の要所であったことは明らかである。
この地から少し西には、南から迫る養老山脈、北からの伊吹山地という狭い地形のなか、美濃から近江を経て京に至る道が集中している。その挟地を経由しない限り、人は著しい遠回りか、険しい山越えを強要されることになる。
だからこの地には、その狭地に不破の関が置かれ、その東方の開けた箇所に美濃国の重要拠点が配置されたと思われる。
七重塔の礎石群
ちなみにいまもなお、東海道線の在来線、新幹線、国道21号線(かつての中山道)、そして東名高速道路といった幹線が、まるで砂時計の狭い箇所のように、わずか一キロに満たない幅のところを並行して走り、その狭地を抜けたところで思い思いの方向に拡散している。
塔の心柱を支えた礎石
そのうちのひとつ、いまは広々と整備された美濃国分寺跡を訪れた。ここは8世紀中頃、聖武天皇の命により、全国68か所に建立された国分寺の一つで、その建立は1400年の歴史を遡ることとなる。
北側の山裾に立つ現国分寺の他には視界を遮るものもないまさに平らで開けた土地である。
広大な土地だが、建物などは一切ない。かつてこの地にあった七堂伽藍の痕跡が、ただその礎石として残るのみだが、それがかえって、往時の壮大な佇まいを偲ばせ、想像力を刺激する。
講堂の礎石群
あえてその在りし日の立体的なイメージを求めるならば、その近くにある大垣市の歴史民俗資料館に展示されている復元ジオラマが参考になる。
寺の中心 金堂の堂々たる礎石たち
広い敷地は一面の草紅葉が目を楽しませてくれるが、それを踏みしめながらかつての建造物の痕跡をたどる。
いろいろ詳細を記すとキリがないので、主だった痕跡を紹介しよう。
遺溝を彩る草紅葉や葦の紅葉、木立のすすきも美しい
最初は、七重の塔の礎石である。これらの上に、最上部の九輪や宝珠を含めて54メートルの塔が立っていたというから驚きだ。
この高さは、現在のビルの高さに換算すると十数階建てとなる。
古墳から出土した円筒の埴輪
中央の石が、塔全体を担う心柱が立っていたところだ。所によっては、その礎石の中央が凹字様にくぼんでいるものもあるが、ここの場合には逆に凸字様になっていて、ここに立った心柱の底面がくぼんでいたと思われる。
いずれにしても、この決して広くない箇所に54メートルの塔を振り子状の力学的な力の分散を計算しながら建立した往時の建築技術は大したものだと思う。
古墳内から出土した石棺
そのほか講堂あとなどの礎石も残っているが、やはり圧巻は金堂跡で、東西8基、南北5基と残されたひときわ大きな礎石は、この上にそびえていた大伽藍の偉容を彷彿させるに十分である。
国分寺の石積みと当時の柱の一部
そうした遺跡とは直接関連しないが、その敷地一面にちょうど程よく色づいた草紅葉が広がり、とてもきれいであった。一隅にあって群生している葦のグラディーションも目をなごませてくれた。
この遺跡に隣接して、大垣市の歴史民俗資料館があるのだが、さほど多くはない展示品は、これでもかと羅列されるそれらより見やすかった。
もちろん国分寺跡からの出土品も展示されているが、すでに見てきた昼飯古墳群などからの出土品も展示されていて、円筒埴輪の実物や、石棺なども見ることができる。
とくに目を引いたのは、やはりこの付近で出土した須恵器の実物で、犬や鳥などの線描が施され、それらの文様がが鮮やかに残っている。そのふくよかな丸みも、そして色彩もまた温かい。
古墳出土の須恵器 線描された動物や鳥が面白い
この広い国分寺跡を立ち去る折、いまいちど振り返ると、この平らに開けた地に、かつて豪勢な七堂伽藍がそびえていたとはにわかに信じがたく、それらを消し去り埋もれさせた時の力と、にも関わらずその痕跡をもとに消え去ったものを蘇らせ、それを記憶にとどめようとする人の追憶への欲望をひしひしと感じるのであった。
そして、その過去と現在のあざなえる葛藤が、私のなかにも、かつて生き、いま生きている人々への共振のようなものとしてあるのだろうと思った。
西濃路、歴史探訪は続きます。
在りし日の国分寺のジオラマ
それらがすべて、遺跡となって点在するのみで、かつての賑わいを想像すべくもないのだが、ただし、この地が、かつても今も、交通の要所であったことは明らかである。
この地から少し西には、南から迫る養老山脈、北からの伊吹山地という狭い地形のなか、美濃から近江を経て京に至る道が集中している。その挟地を経由しない限り、人は著しい遠回りか、険しい山越えを強要されることになる。
だからこの地には、その狭地に不破の関が置かれ、その東方の開けた箇所に美濃国の重要拠点が配置されたと思われる。
七重塔の礎石群
ちなみにいまもなお、東海道線の在来線、新幹線、国道21号線(かつての中山道)、そして東名高速道路といった幹線が、まるで砂時計の狭い箇所のように、わずか一キロに満たない幅のところを並行して走り、その狭地を抜けたところで思い思いの方向に拡散している。
塔の心柱を支えた礎石
そのうちのひとつ、いまは広々と整備された美濃国分寺跡を訪れた。ここは8世紀中頃、聖武天皇の命により、全国68か所に建立された国分寺の一つで、その建立は1400年の歴史を遡ることとなる。
北側の山裾に立つ現国分寺の他には視界を遮るものもないまさに平らで開けた土地である。
広大な土地だが、建物などは一切ない。かつてこの地にあった七堂伽藍の痕跡が、ただその礎石として残るのみだが、それがかえって、往時の壮大な佇まいを偲ばせ、想像力を刺激する。
講堂の礎石群
あえてその在りし日の立体的なイメージを求めるならば、その近くにある大垣市の歴史民俗資料館に展示されている復元ジオラマが参考になる。
寺の中心 金堂の堂々たる礎石たち
広い敷地は一面の草紅葉が目を楽しませてくれるが、それを踏みしめながらかつての建造物の痕跡をたどる。
いろいろ詳細を記すとキリがないので、主だった痕跡を紹介しよう。
遺溝を彩る草紅葉や葦の紅葉、木立のすすきも美しい
最初は、七重の塔の礎石である。これらの上に、最上部の九輪や宝珠を含めて54メートルの塔が立っていたというから驚きだ。
この高さは、現在のビルの高さに換算すると十数階建てとなる。
古墳から出土した円筒の埴輪
中央の石が、塔全体を担う心柱が立っていたところだ。所によっては、その礎石の中央が凹字様にくぼんでいるものもあるが、ここの場合には逆に凸字様になっていて、ここに立った心柱の底面がくぼんでいたと思われる。
いずれにしても、この決して広くない箇所に54メートルの塔を振り子状の力学的な力の分散を計算しながら建立した往時の建築技術は大したものだと思う。
古墳内から出土した石棺
そのほか講堂あとなどの礎石も残っているが、やはり圧巻は金堂跡で、東西8基、南北5基と残されたひときわ大きな礎石は、この上にそびえていた大伽藍の偉容を彷彿させるに十分である。
国分寺の石積みと当時の柱の一部
そうした遺跡とは直接関連しないが、その敷地一面にちょうど程よく色づいた草紅葉が広がり、とてもきれいであった。一隅にあって群生している葦のグラディーションも目をなごませてくれた。
この遺跡に隣接して、大垣市の歴史民俗資料館があるのだが、さほど多くはない展示品は、これでもかと羅列されるそれらより見やすかった。
もちろん国分寺跡からの出土品も展示されているが、すでに見てきた昼飯古墳群などからの出土品も展示されていて、円筒埴輪の実物や、石棺なども見ることができる。
とくに目を引いたのは、やはりこの付近で出土した須恵器の実物で、犬や鳥などの線描が施され、それらの文様がが鮮やかに残っている。そのふくよかな丸みも、そして色彩もまた温かい。
古墳出土の須恵器 線描された動物や鳥が面白い
この広い国分寺跡を立ち去る折、いまいちど振り返ると、この平らに開けた地に、かつて豪勢な七堂伽藍がそびえていたとはにわかに信じがたく、それらを消し去り埋もれさせた時の力と、にも関わらずその痕跡をもとに消え去ったものを蘇らせ、それを記憶にとどめようとする人の追憶への欲望をひしひしと感じるのであった。
そして、その過去と現在のあざなえる葛藤が、私のなかにも、かつて生き、いま生きている人々への共振のようなものとしてあるのだろうと思った。
西濃路、歴史探訪は続きます。