古河鉱業の銅山開発が引き起こした足尾銅山鉱毒事件は、この国の公害闘争の原点のようなものとして教科書にも取り上げられていて、これを知る人は多い。
とりわけ、この闘争に一身を捧げ、明治天皇への直訴をピークにその死に至るまでこの闘争をリードし続けた田中正造は今では偉人としての評価を得ている。
この鉱毒事件はけっして過去の話ではなく、その影響がが100年以上たった今でもさまざまに残留していて、なおその対策が必要な問題であることはあまり知られてはいない。
しかし、ここで触れようとする「もう一つの」はそれについてではなく、田中正造が活躍したその同時代に、主要な舞台となった谷中村の村長であり、田中の右腕とまでいわれた茂呂近助の動静に関する物語なのである。
題して『谷中村村長 茂呂近助 末裔たちの足尾鉱毒事件』がそれである。
茂呂近助のその後があまり知られてこなかったのは、谷中村の存続を巡って情勢が揺れるなか、田中をして、「泥棒を捕らえてみればわが身内」と言わしめた田中と茂呂の亀裂のせいもあるかもしれない。
具体的にいうならば、闘争継続を主張する「正義派」と、補償金をもらって離村しようとする「売村派」とのあいだの対立で、茂呂近助は売村派の頭目とみなされ、ようするに闘争中心の正史からは裏切り者とみなされたのだった。
ここに取り上げた書は、その茂呂近助の孫、ひ孫の世代が「谷中村と茂呂近助を語る会」に集まり、相互に持ち寄った情報、新たに調べ上げた事実などをもとに編纂されたもう一つの足尾銅山鉱毒事件の軌跡ともいうべきものである。
具体的には闘争時の茂呂近助、そして離村を決意して後の茂呂近助の足跡や人となりを可能な限り追ったものとなっている。
書き手は、彼の人となりをうっすら覚えている人1人を含む近助の孫の世代2人、さらにはそのひ孫世代の5人の計7名で、彼らは親の世代から伝え聞いたことども、あるいは、自ら近助の足跡を調べたりしたことなどをこもごも書き綴っている。
それらによると、離村派のリーダーだった茂呂は、代替え地として与えられた北海道はサロマの開拓地へと新天地を切り開くべく村民を導いてゆくのだが、しかし、その地は、予め説明されていたように南に向かって開けた土地ではなく、逆に北に向かったそれであり、冬期にはマイナス20度を超える厳寒の地であったという。
ようするに、救済とは名ばかりの棄民に等しい措置だった。
当時の人力主体の開墾は困難を極め、耐えきれずにそこを去る者たちもあった。近助は谷中村離村の、そしてサロマ開拓の責任者として、その困難に立ち向かうべく、行政的な処置を求めたり、親類縁者やすでに独立していた自分の息子のところへも押しかけ、金策をしたりした。ようするに一方的な金の無心だから、近助の来訪は疫病神の到来のようだったとも伝えられている。
しかし、その労あって、栃木村と名付けられたその土地は、かつてそんな艱難辛苦があったことを感じさせないほどに開けているという。なお、現在は佐呂間町栃木地区で別掲の航空写真の赤い線で囲まれた部分に相当する。
私が感動したのは、この書の後半、この書を書いた「近助を語る会」のメンバーなど、近助の末裔10人余が栃木村を訪れるシーンである。見開きの横長のパノラマ風の写真には、近助たちが開拓した農園を望む地点に至った一行の後ろ姿を中心に、農園とその背後の集落、そしてさらに背後の緩やかに広がる丘陵地が写されていて、彼らが父祖の地を見てはっと佇む息づかいが聞こえてくるようである。
具体的な諸事実は同書によっていただくほかはないが、ここに書かれた足尾銅山鉱毒事件の裏面史ともいえる事柄には、100年前のできごととは思えないような現在に通底するアクチュアルな問題が潜んでいることが散見できる。
たとえば、執筆者の一人は、成田空港反対闘争の折には、ある航空会社の成田支店長の職にあって、反対派から罵声を浴びせられる立場にあったという。
また近助を裏切り者の方へ押しやった闘争継続と補償を得ての離村という二分のパターンは、その後、ダムなどの大型公共事業のたびに繰り返された問題でもある。「正義派」を貫くことの困難、貫いた場合にどうなるかの見極めなどなども問題であろうと思う。
最後に、サロマへの入植は棄民に等しい措置であったといえる反面、そこに発生した新たな被害者への目配りもちゃんとなされている。
新たな被害者とは、なんの補償もなく、ただただ一方的に新参者たちに先祖代々からの住まいと生活の場である土地を取り上げられるアイヌの人たちのことである。
これは満蒙開拓団などの各種棄民政策で、必ず現地での新たな被害者を産み出してきたことと共通する問題である。
『谷中村村長 茂呂近助 末裔たちの足尾鉱毒事件』
谷中村と茂呂近助を語る会:編 随想舎 1,800円+税
*なお、田中正造と茂呂近助のあいだの亀裂であるが、晩年には再び交流が再開されたことを書いておくべきだろう。私自身、それを知ってホッとした感を覚えている。
とりわけ、この闘争に一身を捧げ、明治天皇への直訴をピークにその死に至るまでこの闘争をリードし続けた田中正造は今では偉人としての評価を得ている。
この鉱毒事件はけっして過去の話ではなく、その影響がが100年以上たった今でもさまざまに残留していて、なおその対策が必要な問題であることはあまり知られてはいない。
しかし、ここで触れようとする「もう一つの」はそれについてではなく、田中正造が活躍したその同時代に、主要な舞台となった谷中村の村長であり、田中の右腕とまでいわれた茂呂近助の動静に関する物語なのである。
題して『谷中村村長 茂呂近助 末裔たちの足尾鉱毒事件』がそれである。
茂呂近助のその後があまり知られてこなかったのは、谷中村の存続を巡って情勢が揺れるなか、田中をして、「泥棒を捕らえてみればわが身内」と言わしめた田中と茂呂の亀裂のせいもあるかもしれない。
具体的にいうならば、闘争継続を主張する「正義派」と、補償金をもらって離村しようとする「売村派」とのあいだの対立で、茂呂近助は売村派の頭目とみなされ、ようするに闘争中心の正史からは裏切り者とみなされたのだった。
ここに取り上げた書は、その茂呂近助の孫、ひ孫の世代が「谷中村と茂呂近助を語る会」に集まり、相互に持ち寄った情報、新たに調べ上げた事実などをもとに編纂されたもう一つの足尾銅山鉱毒事件の軌跡ともいうべきものである。
具体的には闘争時の茂呂近助、そして離村を決意して後の茂呂近助の足跡や人となりを可能な限り追ったものとなっている。
書き手は、彼の人となりをうっすら覚えている人1人を含む近助の孫の世代2人、さらにはそのひ孫世代の5人の計7名で、彼らは親の世代から伝え聞いたことども、あるいは、自ら近助の足跡を調べたりしたことなどをこもごも書き綴っている。
それらによると、離村派のリーダーだった茂呂は、代替え地として与えられた北海道はサロマの開拓地へと新天地を切り開くべく村民を導いてゆくのだが、しかし、その地は、予め説明されていたように南に向かって開けた土地ではなく、逆に北に向かったそれであり、冬期にはマイナス20度を超える厳寒の地であったという。
ようするに、救済とは名ばかりの棄民に等しい措置だった。
当時の人力主体の開墾は困難を極め、耐えきれずにそこを去る者たちもあった。近助は谷中村離村の、そしてサロマ開拓の責任者として、その困難に立ち向かうべく、行政的な処置を求めたり、親類縁者やすでに独立していた自分の息子のところへも押しかけ、金策をしたりした。ようするに一方的な金の無心だから、近助の来訪は疫病神の到来のようだったとも伝えられている。
しかし、その労あって、栃木村と名付けられたその土地は、かつてそんな艱難辛苦があったことを感じさせないほどに開けているという。なお、現在は佐呂間町栃木地区で別掲の航空写真の赤い線で囲まれた部分に相当する。
私が感動したのは、この書の後半、この書を書いた「近助を語る会」のメンバーなど、近助の末裔10人余が栃木村を訪れるシーンである。見開きの横長のパノラマ風の写真には、近助たちが開拓した農園を望む地点に至った一行の後ろ姿を中心に、農園とその背後の集落、そしてさらに背後の緩やかに広がる丘陵地が写されていて、彼らが父祖の地を見てはっと佇む息づかいが聞こえてくるようである。
具体的な諸事実は同書によっていただくほかはないが、ここに書かれた足尾銅山鉱毒事件の裏面史ともいえる事柄には、100年前のできごととは思えないような現在に通底するアクチュアルな問題が潜んでいることが散見できる。
たとえば、執筆者の一人は、成田空港反対闘争の折には、ある航空会社の成田支店長の職にあって、反対派から罵声を浴びせられる立場にあったという。
また近助を裏切り者の方へ押しやった闘争継続と補償を得ての離村という二分のパターンは、その後、ダムなどの大型公共事業のたびに繰り返された問題でもある。「正義派」を貫くことの困難、貫いた場合にどうなるかの見極めなどなども問題であろうと思う。
最後に、サロマへの入植は棄民に等しい措置であったといえる反面、そこに発生した新たな被害者への目配りもちゃんとなされている。
新たな被害者とは、なんの補償もなく、ただただ一方的に新参者たちに先祖代々からの住まいと生活の場である土地を取り上げられるアイヌの人たちのことである。
これは満蒙開拓団などの各種棄民政策で、必ず現地での新たな被害者を産み出してきたことと共通する問題である。
『谷中村村長 茂呂近助 末裔たちの足尾鉱毒事件』
谷中村と茂呂近助を語る会:編 随想舎 1,800円+税
*なお、田中正造と茂呂近助のあいだの亀裂であるが、晩年には再び交流が再開されたことを書いておくべきだろう。私自身、それを知ってホッとした感を覚えている。