私は結構いわゆる認知症には縁がある。
50代には、いろいろな事情があって、そうした症状の義母を数年間預かったことがある。彼女の症状は普段はおとなしいのだが、ときおり、食に関してのトラブルがあった。食事をして10分も経っていないのに、まだ食べていないと言いはったり、知らない間に冷蔵庫のものを食べてしまったり、あるときなどは一房買ってあったバナナを全部平らげてしまったりした。徘徊もしばしばあった。今はもう故人である。
妹の連れ合い、つまり義弟はまた少し違う。記憶の減退は著しく、一緒に葬儀に出た人について、「お義兄さん、最近あの人と逢ってますか」と尋ねられたこともある。ひところ、やや暴力的になったこともあったようだが、今は妹や姪の介護で落ち着いているようだ。
私の連れ合いは数年前に亡くなったが、その前数年間は認知障害であった。
彼女の場合は、健常時にはけっこう自己主張があって厳しい言動もあったのだが、障害後は一変してまろやかな「可愛い素直なおばあさん」になってしまって、これなら自宅療養でなんとかなるのではと介護者の私は思ったものだった。
そしてもうひとり、昔っからの友人が時間や空間の認知が損なわれて来た事実に苦しんでいる。この人の場合、自分の症状の進行に充分自覚的であるだけに、そしてそれを嘆き、アイディンティティを守りたいと必死に願っているだけに痛ましいところがある。かえって、その段階を早く抜けて別の平衡に至ったほうがいいのではないかとも思われる。
しかし、上記の観察は、いずれもその当事者の外部にいる、私の視点からのものに過ぎない。
が、この映画はそうではない。そのほとんどが、認知障害をもったファーザー、アンソニーの視線や経験からなっている。だから、それを観ている私たちには、人物やシチュエーションが目まぐるしく変わってしまったりする異変が、まるでミステリアスなホラーであるかのように感じられる。
時空や事物の同一性を撹乱したまま受容しなければならないアンソニーの葛藤は痛々しい。同様に、そんな父と付き合ってゆかねばならない娘、アンの立場もつらいものがある。
ファーザー・アンソニーにとってはもはや失われてしまった「客観的」事実が明かされるのは最後のシーンである。ここに至って私たちは、これまで観てきた錯綜したシーンの、どれが「客観的」であったかが示され、納得する。
しかし、忘れてはいけない。アンソニーにとってはそれは今なお錯綜したままであり、「樹の葉が全部落ちる」ように、事実は失われてゆくのだ。
亡き母を思い泣きじゃくるアンソニーは、介護人にしがみつくようにして「現実」を受け止めようとする。カメラは、窓の外の公園の緑の樹々をアップして映画は終わる。
アンソニーは失った「全ての葉」を、その樹々の下を散策することによって、多少は取り戻せるのだろうか。その錯綜した現実と折り合いを付けながら、新たな均衡のなかで生きて行くのかもしれない。そこに、かすかながら希望が、生きることの筋道のようなものがある。
この映画を、客観的に語ることはできない。なぜなら、これは私の明日の姿であり、その予兆のようなものにすでにとり囲まれているからである。
また、一般論からいうならば、私たちが客観的事実と信じているものは多かれ少なかれさまざまな差異を含んだ曖昧さのうちにある。そして私たちは、それをきっちり「事実」に合致させるチューニングの方法を知ってはいない。
アンソニー・ポプキンスの演技はやはり素晴らしい。
映画が好きな割に俳優にはあまりこだわらない私だが、この人については「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターや、カズオ・イシグロ原作の「日の名残り」のジェームズ・スティーヴンス の演技を記憶している。
どうでも好いが気づいたもうひとつのこと。
この映画、ほとんどのシーンが室内なのだが、それがどの室内なのかはアンソニーの認知のなかでは錯乱したままである。
音楽は冒頭からオペラのアリアにより始まり、それらはしばしば聴かれるのだが、その音楽たちは外部から付けられたBGMではなく、アンソニーその人が聴いているものであり、したがって、彼の陥っている悲壮感を表す一方、彼が「健常」であった折の趣味をも示すものとなっている。