『ぼくは幽霊作家です』 キム・ヨンス(金 衍洙) 橋本智保:訳 新泉社(韓国文学セレクション)
例によって図書館の新着コーナーを覗いていた際、この書が目に止まり、目次などをペラペラみているうちに、よしっ、借りようと思ったのは昨年末に読んだキム・ヘジンの『中央駅』が面白かったからだ。
小説などの文学作品にはもともと疎い私だから日本文学も西洋文学もろくすっぽわかりはしないのだが、キム・ヘジンを読み、その後、イラン系アメリカ人のアザリーン・ヴァンデアフリートオルーミの『私はゼブラ』に触れたりしているうちに、彼女たち(両者はともに女性)はその出自の国家や民族の特殊性をまといながらも、当然のことながらもある種の普遍性を備えていること、とりわけ、日本で、いまここにこうしているこの私を刺激するものをもつという同時代性のようなものを感じたのだった。
それを、グローバリゼーションとかインターナショナルとか、あるいはトランスナショナルといってしまうとなんか違うような気がする。この世界の芯のところにある共同性のようなものが放つ質量感、強度が私に迫るといった感じだろうか。
今回の著者、キム・ヨンスはとてつもなく博覧強記で古今東西、時空にまたがる知識をもっている。それを示すのが、この九つの短編を網羅した小説集なのだが、そのそれぞれが時空を異にするのみか、その主人公も男女、国籍、民族、社会的立場などなどがすべて異なっていて表面上の共通点はない。
なかには、「彼が」で語られていた物語が、終盤に至ってそれを記している「私」に回収されるものや、男であると思っていた「闘士」が女性であったとかいったトリッキーな設定もあるのだが、それらも含めて、それぞれの主人公をして語らしめるという意味で、そのタイトルが『ぼくは幽霊作家です』となったと思える。
彼の博覧強記ぶりは、こうした短編集であるにもかかわらず、巻末に十数頁の〈注〉が付されていることからもわかる。もっとも私の場合、いちいちその注を参照することはなかった。読書のリズムが崩れるからなのだが、それでも、どうしてもそれを抑えておかなければというものについては参照した。そのおかげで、スターリンの大粛清と並行するかのように起こった1930年代なかばの民生団事件について知ることが出来た。
いずれにしても。その出典の多様さから、彼の博識ぶりが浮かび上がってくる。
とりわけ、漢詩についての知識は並々ならぬようで、いずれの小説においても文章の中途で何気なく挿入される。それはあたかも、西洋の小説のなかで、聖書やギリシャ・ローマ神話が頻出するのに似ているかもしれない。
内容をあえてまとめるなら、歴史のなかに翻弄される人びとといっていいだろうか。必然性の尻馬に乗って王道を走るというより、そこからはじき出され、あくまでも偶然に満ちた生をそれとして生きなければならない人たち、彼はそれを「不能説」という言葉で表しているようだ。
短い彼自身の「あとがき」のなかで、彼は「私」を知るために万巻の書を読んだといい、それらの書を通じて、世の中は「私」とは比べものにならないほどの嘘つきに溢れていることを知った、という。以下、それに続く段落を彼の言葉で載せておく。
一人称。「私」。私の目で見た世界・「私」だけで構成された小説集を一冊出したかった。やれるだけのことはやった。なぜなら「私」は本当に嘘つきになってしまったのだから。(あとがきより)
この一見、歴史的現実とはニュートラルなもの言いとは裏腹に、彼のこの短編集には、朝鮮半島の歴史、日本の支配下におけるそれ、その解放後、そしてその後の内戦、その境界が現在のように落ち着く前の流動的な南北境界の移動、などなどの歴史的事実が重くのしかかっている。
最後の短編、「こうして真昼のなかに立っている」は、そうした南北の支配地域が移動するなかで、その都度、自分の立ち位置を選択せざるを得なかった生き方、そして、その際の選択に関する事後的な査問、追求、人民裁判、処刑・・・・などが、その皮肉な逆転とともに語られている。
「そして私は、ここでなんと叫んで死ねば良いのでしょうか」が残された主人公の言葉である。
ここに至ってキム・ヨンス自身が、歴史から超越した存在でもなんでもなく、まさにその歴史と向かい合っていることに気づく。 ただし、単純な正邪、善悪の対比でそれを語るとき、彼はほんとうの大うそつきになってしまうだろう。だから、そうした出来事の周辺にあって、偶然としてそれに関わり合った人間のありようを、その現場を再構成することによってその人間に語らせるという方法をとっている。
だから彼は自分のことを幽霊作家=ゴーストライターとしたのだった。
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『必然性の尻馬に乗って王道を走るというより、そこからはじき出され、あくまでも偶然に満ちた生をそれとして生きなければならない人たち、彼はそれを「不能説」という言葉で表しているようだ』
『その都度、自分の立ち位置を選択せざるを得なかった生き方、そして、その際の選択に関する事後的な査問、追求、人民裁判、処刑・・・・などが、その皮肉な逆転とともに語られている。
「そして私は、ここでなんと叫んで死ねば良いのでしょうか」が残された主人公の言葉である』
人生って全部こんなものでしょう。能動的に叫ぶ言葉が常に決まって来た「幸せな」人も含めて。
この本、早速ラクダ書店に問い合わせました。返事が後で来るのですが、値段次第で買おうと思います。
私の読みは極めて主観的で、自分の方へ勝手に手繰り寄せて読む癖がありますから、実際にお読みになって、何だ違うじゃないかとお思いになるやも知れません。
しかしそれもやむを得ないことで、書き手も、読み手も、自分の歴史を背負って読むわけですから幾通りもの解釈があってしかるべきでしょう。
文科系様の読みを貫かれますように。
「表現」に比喩や、思わせぶりとしか解釈できないもの?が多すぎた。とにかく、意味を理解するのに時間がかかる表現に疲れたと感じたのは、日本人だからなのかどうか。話の本筋に入る前にもう読みたくなくなってしまった。
悪しからず。僕は基本的に文庫本しか買わないんで・・・申し訳なかったです。
お詫びになる必要はありません。
たしかに彼のスタイルはけっして読みやすいものではありませんし、それにその博覧強記ぶりが邪魔をする面がありますから。