以下は、岩波新書『リベラル・デモクラシーの現在 「ネオリベラル」と「イリベラル」のはざまで』(樋口陽一)に触発された感想。
この書によれば、リベラル・デモクラシーがネオリベラル(現今の新自由主義)とイリベラル(反知性的で偏狭ないわばトランプ的あるいはネット右翼的連中)の挟撃に逢っているという図式だが、実態はネオリベラルとイリベラルが相互に関連し、浸透し合っているということではないだろうか。
ネオリベラルとイリベラルはさほど矛盾した存在ではない。ネオリベラルの自己責任論による格差の拡大、セーフティネット崩しなどによる貧困層の創出があるところに、それら排除された部分のルサンチマンを組織するイリベラルが跋扈する。トランプ支持者たちがそれに相当する。
もちろん、わが国のネット右翼といわれる連中も例外ではない。
翻って、現在進行形の米大統領戦をみるに、世論調査等の数字がそのまま実現するとすればバイデンが勝利するだろう。しかし、表層的にはトランプより紳士・淑女的であれ、その政策が基本的にネオリベラルの域を出ないとしたら、イリベラル生産の環境や過程は変わることなく継続されるだろう。
なお、このイリベラルは、『全体主義の起源』で、ハンナ・アーレントがいうところの「モッブ」に相当する。そしてこのモッブは、いわばゴロツキなのだが、しばしば全体主義の露払いをするばかりか、場合によっては、ポピュリストとしてその全体主義の担い手そのものに成り上がったりもする。ヒトラーがそうだったように。
また、このイリベラルを背景にしたポピュリストとしてはトランプがそうだし、身近なところでは名古屋市長の河村がいる。彼はレイシストで歴史修正主義者で、低俗極まりないデマゴーグである。
ここから見えてくる課題は、ネオリベ支配の現実による犠牲者たちを、その支配の構造のなかに放置したり、あるいはイリベラルの疑似変革の罠に取り込まれないようにすることなのだが、現今の野党といわれている勢力がどこまでそれを自覚的に追求しているのだろうか。
たんに、ネオリベやイリベラルに対しリベラルを対置するのみでは無力であろう。先に見たように、いわゆるリベラルを呼称しながら、その実、ネオリベと大して変わりない連中もいるからだ。