ここに載せた写真は、過日豊橋へでかけた折の帰途、名鉄豊橋駅のホームで撮ったものです。ただし、最後の一枚は名鉄岐阜駅へ着いたときのものです。
夜のプラットホームは寂しいものです。ましてや初冬の折から、ひとりぽつねんと佇んでいるとなおさらです。
動画は名鉄豊橋駅のプラットホームからのものです。まず過ぎゆくのはJR東海道線の在来線です。その後、ひとが列をなしているのは新幹線の豊橋駅ホームです。意外と多くの客が降りてきますが、週末金曜日の午後7時過ぎ、東京方面から帰ってきた人たちでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=Ces6MKDxk-I
「夜のプラットホーム」といえば、私のような年配の者が思い出す歌があります。同名の歌謡曲(作詞:奥野椰子夫/作曲:服部良一)で、戦後(1947年)、二葉あき子が歌って大ヒットしたのですが、実はこの曲、すでに戦時中の1939年、淡谷のり子の歌でリリースされていたのでした。
しかし、その折、全体に歌調が暗く、出征兵士を見送る機会が多い折からふさわしくない、とりわけその歌詞に「きみいつ帰る」とあるが、戦場に出かける際は「帰る」は禁句で、出征兵士は「行く」のではなく「逝く」のだという覚悟が必要として、発禁処分になったのでした。
ですから戦後のそれは、戦前のもののリバイバルだったわけです。
https://www.youtube.com/watch?v=Eep_VL8kXGE
しかし、この発禁処分には面白いエピソードがあって、作曲者の服部良一はこれに屈することなく、次のような抵抗を試みたというのです。それをWikiから引いておきます。
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その2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ち侘びて」)というタイトルの洋盤が発売された。作曲と編曲はR.Hatter(レオ・ハッター、=服部良一)という名前の人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。そして、レオ・ハッターとは服部良一が自身の名をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていた、ドイツ系のハーフの男性の変名であった。
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どうやら検閲官は英語に暗く、これが発禁にしたものと同じものだとは気づかなかったようで、無事パスしたのでした。しかし、同年の末に真珠湾奇襲があり、日米開戦に至って、英語の歌は敵性言語によるとして事実上歌われませんでしたから、日の目を見た期間は短かったわけです。
なお、この服部良一、1926年に大阪フィルに入り、そこでロシア革命絡みで亡命してきたウクライナ人の音楽家エマニエル・メッテルに師事し、音楽理論、作曲、指揮などの指導を受けたといいますから、もともとはクラシック畑のひとです。その折の同期には、長年大阪フィルを率いた朝比奈隆もいました。
そうした経歴をバックに、歌謡曲の歴史において、演歌調のものが古賀政男に代表されるとすれば、ポップス調のものは服部良一に負うところが多いのです。
この「夜のプラットホーム」はタンゴですが、他に、ジャズ、ルンバ、ブギ、ブルースからシャンソン風のものまでその作曲はとても多彩でした。
なお、良一に続く子孫も音楽家揃いで、息子の克久(故人)、孫の隆之はそれぞれ作曲や指揮など広範囲に活躍しています。また、隆之の娘(=良一のひ孫)服部百音は若手バイオリニストとしてただいま人気上昇中です。
ワックスマン作曲「カルメン幻想曲」の演奏を貼り付けておきましょう。