第五夜は丸山圭三郎の『ソシュールの思想』。
現代思想を語る上で、ソシュールの言語論的転回を学ぶことは必須だと言われ、その概略もわかったつもりでいたが、もっときちんと学ぶ必要があると思っていた。
しかし、ソシュールその人は生前その著を残さず、弟子たちのノートから編纂した『一般言語学講義』があるのみ。しかし、ド素人の私がいきなり言語学の原典に挑む勇気もなく、逡巡していた1981年にこの書が。
この書での丸山の整理は素晴らしい。漠然としていた領野が、次第に明確になってゆく読書の快感を十分に体験させてくれたのだった。
と同時に、まだ飲み屋の亭主だった時代、深夜の一時、二時に帰宅し、そのあと、夜が白むまでこの書に入れ込んで読みふけった日々が懐かしく思い出される。
私たちが日常、自明のこととして使っている言語が、これほど恣意的なもので揺らぎのうちにあるなんて、まさに、私が言語を駆使しているのではなく、言語が私を、あるいは私をして語らしめているのだという事実。
すでにみたニーチェやフロイド、そしてマルクスとともに、人間とは自分はこうだと考えているようなものではないことを、言語の本質とその構造から解き明かした書といえる。
第六夜はちょっと変わり種で、1991年モーツァルト没後200年のモーツァルトイヤーを記念して、1990年末から1993年にかけて小学館から刊行された『モーツァルト全集全 15巻』(海老沢敏監修 書き手は海老沢氏はじめ各界の錚々たる人々)。
モーツァルトの音楽は、学校で習ったようなものより遥かに幅広く奥行きもあることを感じ始めた頃の刊行、さっそく飛びついた。
最初は、書物というより、各巻に付された12ないし13枚のCD(全15巻と全巻購入者へのおまけを含めて、200枚近く)目当てだったのだが、それに付された各巻の書が実に充実していて、それに学ぶところが多かった。
モーツァルトの音楽に関してはもちろん、その時代の背景(歴史学、経済学、宗教史)、思考様式やイデオロギー(哲学、思想史)、モーツァルトやその時代の人びとの心理(社会心理学)、絵画や文学など他の分野との関連(学際的芸術論)などなど、実に多くのことを学ぶことが出来た。
購入して以来30年、オペラや宗教曲など、この書に記された原詩やその翻訳と対応しながら聴くべきものがまだ残っている。
パラノイック(偏執的、集中的)で原則遵守型のストイックな音楽にも、もちろん聴くべき魅力はあるが、スキゾフレーニ―(非定住的、分裂的)で奔放なモーツァルトには今なお惹かれるものが多い。
モーツァルトはディオニソス(=バッカス)的な資質があり、したがってニーチェに近いのではなどと勝手に思っている。