いよいよ明朝、K氏の本拠地で私のこの旅の最大の目的地であったライプチヒを離れることとなった。
最後の晩餐(パリ五輪の開会式でのそのパロディと目されるものが問題となり、恐喝騒ぎになっているそうだが、私のそれはそんな物騒なものではない)であるが、それについては予め私の方からK氏に頼んでおいたことがあった。それは、ライプチヒへ 来た以上、K氏に会うのは当然として、それ以外の彼の人脈のある人々とも逢いたいということだった。
彼の方では誰にしようかと困っていたようだが、たまたま彼がここぞと思い予約をしていたレストランの近くに、彼がライプチヒ大学勤務時代の同僚で、 今なお勤務を続けている東アジア研究所中国学科の講師Zさん(女性)が住んでいること、しかもその娘さんHさんが、念願の芸術大学へ入学が実現し、その祝いをしたいとのことで、それではということで、私のお別れの宴とその娘さんの祝宴とを共にしようということになった。
前回述べた聖トーマス教会でのオルガンコンサートの後、K氏と私はその予約の店へと徒歩で行くことにした ある。トオマス教会から西へ進み、メンデルスゾーンの像の前を横切りリングを囲む通りを渡ると 広々とした緑地帯に出るこの一帯は直径1キロほどの広さを誇る公園で、その名はクララ・ツェトキン公園と言う。
このクララ・ツェトキンという名は、私の年齢以上のいわゆる左翼にとってはよく知られた二〇世紀前半のドイツの革命家でありなおかつフェミニスト運動の女性活動家のもので、ローザ・ルクセンブルグの同志としても知られている。なお彼女は、ナチスが政権を取るに至り、当時のソ連へと亡命するが、その地で客死している。
一方、ローザ・ルクセンブルグは1919年のスパルタクス団蜂起の際に、 カール・リープクネヒトなどとともに、右翼のフライコール(義勇軍)によって虐殺されている。なおクララ・ツェトキン公園から程遠くない場所に、このカール・リープクネヒトの名を冠した通り存在していることも、この街が東独の街であったことを示しているのかも知れない。
クララ公園の広大で深い緑の中をK氏とさまざまな話をしながら行く。こういう感じの 大木が林立し緑地が広がりなおかつ水をたたえた池がこれほどの規模で広がる公園は日本にはない。東京のちまちまとした公園の緑さえ伐採しようとする話が出ているというが愚かな話というほかはない。
小一時間、ゆっくり話しながら歩いたろうか。公園の中を流れる運河のほとりに出た。目指すレストランはこの運河に面してあるというので、運河に沿って南下する。
K氏の馴染のこのレストランのオーナーはイタリアはシシリー島の出身という陽気な人で、二〇年ほど前、私もシシリー島へ行ったことがあるというと、まるで100年の知己であるかのように抱きしめてくれた。
店内にも多くの席があるが、運河に張り出した川床のようなところに席を取る。身動きを誤ると落っこちそうな運河では、大勢の客を乗せた観光船、小型のボート、カヌー、競技用の練習船舶などがひっきりなしに行き交う。午後5時は過ぎているのだが、9時頃まで明るいここでは、まだまだ日本の午後3時といった様子だ。
待つことしばし。Z&Hさん母娘が現れる。この旅に出て以来、はじめて面と向かって出会う東洋系の人たちだ。妙な親しみと安心感はあるのは私もまた東アジアの人間だからだろう。とはいえ、やはりカタコトの英語(私の方だが)以外、言葉は通じないのでいくぶんもどかしい。その辺をK氏に依存しながら話を進める。
Zさんは親しみやすさとともに現役の大学講師だけあってどこか頼もしい感ががある。その娘さん、Hさんは自分の志望をちゃんと見据えた確固とした意志と、何よりもこれからそれを推進して行こうとする若さがみなぎっている。
話題は多岐にわたった。自分の語学力の乏しさを嘆きながら、K氏の補助を受けて話は進む。Hさんは美大で何をしようとしているのかの私の問いに、日本のアニメ作家の絵に興味があるとのことだった。しかし、その辺のところは私にはわからない。そこで、私の知る限りでの日本の現代美術の絵画をスマホの検索から引っ張り出しながら話を進める。
私とZさんの乾杯
奈良美智、会田誠、村上隆などの作品を観る。これには彼女も興味を示してくれた。もちろん、とっくに知っていて私に合わせてくれただけかも知れないが、それでも話の過程は面白かった。
何らかの拍子に、ハイデガーの話が出て、その際、Zさんが「あなたはハイデガーのすべてを肯定しますか」と問いかけてきた。西洋形而上学を否定しようとしたハイデガーが、1933年のフルブライト学長就任にあたってナチズムをもその選択肢として考えてしまったことは遺憾に思っている旨を話したら、彼女の表情は和らいだ。
K氏と私
その他、ハンナ・アーレントの話なども出て、日本の親しい友人たちともあまりできないような会話が重ねれられた。中をとりもって通訳していくれたK氏は大変だったろう。
正直にいって、話がはずんで料理の詳細はおぼえていないが、シシリー出身だけに魚介も含めたそれらはどれも美味しかった。K氏がこの店を贔屓にするのもわかるような気がする。日本で馴染んだ味覚をとんでもなく超えてしまうことのない程よい味付けが施されているのだ。
K氏とHさん
傍らの運河を往来する船の数が少なくなり、辺りにやっと闇が忍び寄る頃、楽しかった宴は終わった。
最後は、この近く住む彼女たちと別れてK氏とトラムで帰ったが、ホテルへ帰ってからも、あれも話せばよかった、これも語るべきだったという思いが次々と湧き出てライプチヒの最後の夜はさまざまな惜別の情とともにふけゆくのであった。