『日本とドイツ ふたつの「戦後」』 熊谷徹 集英社新書
現代の世界を見るに、アメリカ、中国、それにEUを中心としたヨーロッパの三極にその動因をみることができるようだ。ロシアは相対的にその影響力を低下させているし、かつて、ジャパン・アズ・ナンバーワンと浮かれていたこの国などは、もはや先進国という区分けも恥ずかしいくらいだ。現今のコロナ禍のなか、その対策を誤り、しかもそのワクチン供給状況においては、まったくの後進国であることが露呈してしまった。
もっとも、はしゃいでいた80~90年代にかけても、単に成り上がり者然として登場したのみで、いかなる意味でもリーダーシップをとったとは言い難いものであった。
日本とドイツは、ともに第二次世界大戦の敗戦国であり、その戦後復興の歩みなどいろいろ比較対照されてきたが、ここに来て歴然たる差異が明確になったように思われる。
ドイツはいまやEUにあって、押しも押されぬ中心的、かつリーダー的存在であり、上に見た世界の三極の一つのピークともいわれる位置にある。
一方、日本という国は世界的レベルでもその地位を低下させているのだが、地元の東アジアにおいては、いまや単なる嫌われ者扱いである。
ネット上でのレイシストたちの嫌韓嫌中の罵詈雑言は相変わらずだが、それはまた、自分たちがこの地域で受け入れられていないことの鏡像的反応でもあろう。
日独のこの差異はどこでどのように生じてきたのだろうか。
著者は、それに関して多くの書を書いているが、NHK時代のワシントン支局在任中にベルリンの壁崩壊を経験し、米ソ首脳会談などを取材した後、1990年ドイツ再統一前後から、フリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン市に在住している。この経歴が示すように、30年余の在独でドイツを内在的に実体験し、それをもとに書かれたこの書はそれなりの説得力をもつ。
同じように「戦後」を始めながら、なぜこのような差異を産むに至ったのかに興味があってこの書を手にしたのだが、結論をいうならば、私が想定していたものとさほど違うものではない。
しかし、具体的局面での事実や諸データなど、新たに接する情報も多く、とりわけ、いま私が関心を持っている、この国、日本の戦後が抱えていた問題を映し出す鏡の役割を担うように思えた。
ドイツの戦後は、600万人といわれたユダヤ人の虐殺、500万人といわれる各種障害者や同性愛者、ロマなどの少数民族の抹殺という加害者としての自身を出発点にしながら、それへの自己否定とそれら被害者への徹底した謝罪、そして具体的な補償から始まった。
それらは、経済的な賠償を伴うとともに、再びそうした罪過を犯すことが不可能な体制づくりに集中した、いわば倫理的な大手術の展開でもあった。
一方、日本の戦後においては、戦争に対する 否定的な観念は一般的にあったとはいえ、それらは日本人が戦死をしたり、家が焼かれたり、原爆を落とされたりしたということに対する被害者意識に根ざすものであり、その一方では、戦前、戦中の国体の維持=天皇制の継続をひたすら祈念する守旧的なものでもあった。
そこには、加害者意識のかけらもなかった。戦時中、軍国幼年であった私の意識のなかにも、加害者としての思いはまったくなく、それが生じたのは戦後10年以上経過した後、かつてこの国がなしたことどもを具体的に知る過程を通じてであった。
ようするに、日本の戦後は、戦争を始めたこと、その前後に関わるこの国自体のありように関する自己点検的な検討とは無縁のところで迎えられたということである。
この国は、加害者としての事実を突きつけられるに従い、渋々それらを認めるのだが、その値引き措置に余念がない。例えば、南京虐殺の人数に対しての異論から、それがなかったとの見解すら導き出すのである。
こうした人数の確認という点では、ナチスの被害者、ユダヤ人600万人、その他500万人というのも確定されたものではない。しかしドイツは、その確認は然るべき部門の作業に任せるとして、その過大かもしれない数字にこだわることなく、まずはそれへの責任を果たそうとする。
しかし、日本の立場はまったく違う。姑息な数字の解釈によって、その加害の事実を無化しようとすらしている。
18日の朝刊が報じるところによれば、文科省は、教科書検定に当たり、従来の「従軍慰安婦」から「従軍」を削り、「慰安婦」とのみ記述することを求めるという。ようするに、国家や軍が関わったことはなく、勝手に体を売る女性たちが集まってきたというストーリーをゴリ押しするつもりなのだ。
ここに透けてみえるのは、嫌韓嫌中のレイシストたちの見解が日本会議などを媒介として自民公明の現与党と完全に通じ合っているということである。
日本は、いまだに自分たちが加害者であったことを認めてはいない。ただ、経済や交易のプラグマティックな要請に応じて、部分的に妥協してきたに過ぎない。
ここに欠如しているものはなにか。単純にいって倫理的な意識の絶対的な欠如である。
ドイツは、敗戦時、自らの罪過を認め、それを償うこと、再びその罪過を犯す道を塞ぐこと、それによってしか未来はないと考え、いまに至るまでそれを実行している。
それに対しこの国は、加害者たる意識をいまだに明確にはもたず、被害国からの指摘に対し、なんで今さらとか、逆に自分たちが被害を被ろうとしているかの態度をとり続けている。
やはりこの国の戦後の受け止め方、戦後民主主義というもののいびつさ、それが生み出した理念も倫理も欠いた政治体制、それこそが問題なのだろう。
ドイツやメルケルを手放しで礼賛するつもりはない。しかし、そこにはこの国にないものがあることは事実である。
この書はそれをわかりやすく記している。
後半で展開されるその経済政策、環境対策、とりわけ、原発容認派だったメルケルが2011年のフクシマの事例を受け止め、直ちにその全廃を決意するに至った過程も面白い。
フクシマの事故は、その深刻な放射能汚染によって東日本はほとんど居住不可能になるという事態から紙一重のところにあった。それを免れたのはまさに僥倖というほかはないことをメルケルは正確にキャッチしたのだ。
その当事国は今、40年を過ぎた原発は稼働しないという当初の方針を改変してまで老後の原発を再稼働させようとしている。
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