お釈迦様 二千数百なにがし回目のお誕生日、おめでとうございます。
甘茶をかけてしんぜますから、コロナ禍に思い迷うわれら衆生の凡夫の迷妄を鎮め、安らかたるべくお導きください。
ところで本日、今期はじめて、農協で竹の子を求めてまいりました。穂先の色からみて鮮度もまあまあのようです。
早速下ごしらえをして、湯がくことにいたします。たっぷりの米糠と鷹の爪、あとは落し蓋をして二時間ほどを目処に火にかけるつもりです。
今夜は、姫皮のおひたしと若竹煮でしょうか。わが家の山椒がまだ芽吹いたばかりで、添えることができないのが残念です。
田舎へ疎開していた戦時中、竹林の下に防空壕がありました。そこへ避難していたある夜のことです。その壕から一〇メートルも離れていないところに、一トン爆弾が落ち、防空壕の入り口が土砂で埋まってしまいました。
大人たちが土をかき分けて、やっと外へ出ることができました。そこには、大きな蟻地獄のような地面のえぐれがありました。
そんな巨大な力が働いたにもかかわらず、防空壕の天井が落下し生き埋めにならなかってのは、そこが竹藪の下で天井には竹の根がリゾーム状に張っていたおかげなのです。
もうとっくに亡くなった明治中期の生まれ、善太郎爺様の経験からくる知恵に感謝あるのみです。
若き日に、あのマグニチュード八という濃尾大震災を経験していたのではないでしょうか。
竹の子の季節になると、それらのエピソードを思い出すのです。そうそう、善太郎爺様の手ほどきで、竹の子掘りをしたこともあります。唐鍬というやや細身で刃の厚い鍬を慣れない腰つきで振り回す私に、「坊、もっと深く掘らにゃいかん」と爺様の声が飛んだものです。
防空壕の話から、昨秋行った沖縄でのチビリガマを思い出します。沖縄戦のさなか、降伏はならぬとの思いから八二名の自決者を出したあの悲劇の洞窟をです。
あ、それに九年前、中国は山西省の賀家湾村で、日本兵による村民二三〇余名の蒸し焼き現場というヤオトンを訪れたことも思い出しました。
せっかくのお釈迦様のお誕生日なのに、なまじっか戦争の最後の方を知ってるだけに、いろいろ血なまぐさいところに記憶がさまよってしまいました。
あ、そろそろ、竹の子が湯がき上がる頃です。