いつものように、同人誌の締切に追われ、そのための様々な資料を読み漁る合間に、箸休めのようにして小説を読もうと(こんな態度は、小説や文学を愛する人からはひどく軽蔑されるだろうな)、図書館の新着図書コーナーで目についたのがル・クレジオの『ビトナ ソウルの空の下で』であった。
なぜ、これが目についたかというと、同人誌の次号でまさに朝鮮に関して書こうとしていたことによるが、同時にフランス人の作者が、なぜ韓国を舞台に主人公をはじめ現地の人しか出てこない小説を書くのか、しかも2017年にまず韓国訳が韓国で出版され、翌年、フランス語版が母国で発刊されたのか、それが気になったのである。
しかもこの作家、こうした「韓国小説」はこれがはじめてではなく、2014年にも韓国南方の島を舞台にした『嵐』という小説を書いているらしい。
これはまた、借りてきてから知ったのだが、この人、2008年には「ヨーロッパ文明への批判的な視点と詩的な文章が評価され」ノーベル文学賞を受賞しているらしい。
タイトルに出てくる「ビトナ」は18歳の女子学生であるが、彼女は二重の意味において語り手である。ひとつには、この小説が彼女の一人称の語りによって書かれていることによるが、もうひとつには、この小説内において、肉体の不自由な41歳の女性サロメ(本名はキム・セリ)のもとへ行き、彼女のためにいろいろな物語を聞かせるバイトをしているからである。
こう書くと「千夜一夜物語」のようだが、それとは異なるのは、この語り聞かせの主導権は完全にビトナの方にあり、サロメが待ち焦がれているにもかかわらず、ビトナはマイペースで長い間行かなかったりして、私なんかは、なぜもっと行っていろいろ話してやらないんだと少しイライラしたりする。一回行けば、時間の長短にかかわらず、5万ウオン(約5,000円)が手に入るにもかかわらずである。
ビトナの事情に関していえば、しつっこいストーカーに付け回されていて部屋までかわるのだが、それでもなお、付け回されることになる。ただし、危害は加えられないようだ。
ビトナは結局、サロメの症状が悪化して入院し、その死を迎えるまで、前後して途中で中断し、また続けたりしながらも、4つの物語をすることとなる。
私がもっとも感動したのは、幼い頃、朝鮮戦争の戦火を逃れて母に背負われ川を渡り、南へ逃れてきたチョ・ハンスさんの物語だ。このとき、チョ少年は二羽の伝書鳩をポケットに忍ばせていたが、その後の生活のなかでそれらを飼うことは叶わず、定年退職後、「グッドラック」と名付けられた巨大団地の管理人となり、やっと屋上で何羽かの伝書鳩を飼うことができるようになる。
チョさんは、これらの鳩たちと、まるで意思疎通ができるかのように訓練に勤しみ、ついにその夢を叶えることができる。その夢とは、チョさんが戦争前に暮らした生まれ故郷(北側)との鳩を通じての交信であった。
インターネットの時代の鳩を通じての交信、それに至る鳩たちのチョさんの意志を理解し、その故郷の村へたどり着く不思議さ、そこにはなにか快楽のようなものがある。
ビトナは他に三つのまったく違ったシチュエーションの話をサロメにするのだが、気をつけてよく読むと、最初のチョさんのテリトリー、グッドラックとつながっているのがわかる。ただし、それぞれの話の内容には必然的なつながりはなにもない。
ビトナをしつこく監視していたストーカーの正体も明かされる。その意味で、一見バラバラに放り出されたようなこの小説のひとコマひとコマは、集約されるとはいえるのだが、その集約のされ方は、西洋合理主義の理詰めの決着ではない。
どこか、必然性の論理を越えた至極ゆったりとした辻褄の合い方、これがこの作家が自国フランスではなく、韓国を舞台とした「韓国小説」として表現したかったものかもしれない。
なお、私がもっとも心情移入したのは、物語の聞き手サロメであったことをいい添えておこう。自分で物語を紡ぎ出すことができない私は、それを聴くことが大好きなのだ。