前回の日記には随分思わせぶりはことを書き、ご心配いただいた向きもあるようです。
事実、私自身の中では深刻だったのです。
ここに今現在、書けるだけのことを書きます。
私は名古屋シネマテークという映画館の創設以来の熱心な応援団です。
この映画館、メジャーなところではやらないが、それを見たいという人たちのために、たとえマイナーであっても(ということは興行的にはいまいちでも)それを上映するというのがコンセプトです。
そのもとでこの館が選んだプログラムが「靖国 YASUKUNI」でした。
ところがこの映画、以下のような経緯でとんでもないことへとなってしまいました。
発端は稲田朋美という自民党の議員でした。この映画に文化庁から助成金が出ているというので、その内容を確かめるという理由で文化庁に働きかけ、自民党などの議員を対象にした先行試写会を実現させたのです。
そしてこの稲田議員、それが不適切ではないかと異議を申し立てたのです。
これは明らかに事前検閲です。
国会議員といえども映画の前では一観客に過ぎません。ちゃんと公開されてからそれについて意見を言えばいいのです。その折に、彼女の意見がなんであろうがそれは自由です。
しかし、こうした事前検閲の結果、全国の右翼が騒ぎはじめました。
「そうか、そんな映画なら上映を阻止しなければならない」ということです。
彼らの具体的な圧力のもと、東京、大阪などで計5館での上映が中止に追い込まれました。
その時点で降りていなかったのは名古屋シネマテークと大阪のナナゲイとの二館でした。
しかし、上映期日の都合で、シネマテークは5月3日から、ナナゲイは10日からと、シネマテークが全国のトップを切って上映ということになりました。
果たせるかな、右翼団体からの上映中止の抗議行動や圧力がかかりました。
全国から何百台という街宣車が名古屋は今池の地に集まり、それらに乗って千人を越える連中が押しかける可能性があるのです。
朝日新聞が示唆するようにある「政治結社」が訪れ、話し合い(?)をしました。
警察は一応シフトをとるでしょうが、不測の事態には対応し得ないと言います。
公には「抗議行動」となっていますが、右翼自身が広言するように、その街宣車は彼らにとって「武器」なのです。おまけに、そんなときこそ「手柄」をと跳ね上がる鉄砲玉がいます。
街は騒然となり、入場者やスタッフの安全は極端な危険にさらされます。
上映そのものが、入場者に紛れた連中の場内での器物破壊や妨害工作により不可能になることも考えられます。
「不測の事態は阻止し得ない」とする警察の見解も、「話し合い」に訪れたその筋の連中も、それらの可能性を示唆するものでした。
これは平易な日本語で言えば「脅し」に相当するものです。
しかしそれは、先に見たように単なる言葉に留まらない可能性を持つのです。
名古屋シネマテークは、上映の延期に追い込まれました。
わずか50席に満たない映画館が、警察の保護も得られないまま、全国の右翼団体を相手に戦えるわけがありません。
私は、その間の経緯をスタッフから聞いています。さすがに「イケイケじいさん」の私でも上映強行を主張することは出来ませんでした。
結果として、自分の無力さへの激しい嫌悪、口惜しさ、ふがいなさに苛まれ、ここしばらくはよく寝られません。
稲田や福田は、「そんなことで表現の自由が奪われるのは遺憾である」とシレーッとして言っています。
しかし、火を付けたのは自分たちの事前検閲ではないか!
「さあ、私はここまでやったわよ、あとはあなたたち頑張りなさい」と右翼に丸投げしアジッたのは彼らではないか!
表現や言説の空間を狭め、黒い暴力に蹂躙させる状況を生み出しているのはお前たちではないか!
その証拠があります。今この映画に対して全国で圧力を強めている右翼団体は「日本会議」という団体で、稲田も福田も、その外郭団体、国会議員懇談会のメンバーなのです。要するに、同じ穴の狢なんのです。
本当に遺憾に思うのなら、その団体を通じて、妨害工作をしないように働きかければいいのですが、そんなことは一切しようとはしません。
「あとはあなたたちの出番よ」が本音なのです。
日本では、たった一本の映画すら権力と暴力に蹂躙されて観ることができないのです。
彼らには北朝鮮や、中国の人権問題を批判する資格はありません。
それと同じ発想をし、同じことを行っているのですから。
稲田という人は弁護士だそうです。
そうだとしたら彼女は私たちが弁護士に抱くイメージとはるかに隔たっています。
法に基づいて、人々の正当な権利を擁護するのではなく、自分の気に入らない言説や表現は、権力と暴力によって抹殺するという信念を持っているからです。
私の乏しいボキャブラリーでいうなら、それはファッシストというのであり、表現と言説を闇に葬る黒い暴力の実践者というほかないのです。
前回の日記での私の忸怩たる記述は以上の事柄に起因します。
決定したのは私ではありませんが、その経緯を知り意見を求められていただけに、私の中には暗く深い澱のようなものがつっかえています。
彼らが許容し、お目こぼしした映画のみを観なければならないとすれば、映画を観るということはいったい何なのか、悶々として自問しています。
名古屋がこんな状態なので、残された大阪のナナゲイに対し無責任にガンバレとは言えないのですが、それでもなんとか上映できればと思わずにいられません。
そして、それを起点に、既に延期や中止を決めた館も態勢を整え直し、団結して上映が実現できればとわずかな希望を失わないようにはしようと思うのです。
事実、私自身の中では深刻だったのです。
ここに今現在、書けるだけのことを書きます。
私は名古屋シネマテークという映画館の創設以来の熱心な応援団です。
この映画館、メジャーなところではやらないが、それを見たいという人たちのために、たとえマイナーであっても(ということは興行的にはいまいちでも)それを上映するというのがコンセプトです。
そのもとでこの館が選んだプログラムが「靖国 YASUKUNI」でした。
ところがこの映画、以下のような経緯でとんでもないことへとなってしまいました。
発端は稲田朋美という自民党の議員でした。この映画に文化庁から助成金が出ているというので、その内容を確かめるという理由で文化庁に働きかけ、自民党などの議員を対象にした先行試写会を実現させたのです。
そしてこの稲田議員、それが不適切ではないかと異議を申し立てたのです。
これは明らかに事前検閲です。
国会議員といえども映画の前では一観客に過ぎません。ちゃんと公開されてからそれについて意見を言えばいいのです。その折に、彼女の意見がなんであろうがそれは自由です。
しかし、こうした事前検閲の結果、全国の右翼が騒ぎはじめました。
「そうか、そんな映画なら上映を阻止しなければならない」ということです。
彼らの具体的な圧力のもと、東京、大阪などで計5館での上映が中止に追い込まれました。
その時点で降りていなかったのは名古屋シネマテークと大阪のナナゲイとの二館でした。
しかし、上映期日の都合で、シネマテークは5月3日から、ナナゲイは10日からと、シネマテークが全国のトップを切って上映ということになりました。
果たせるかな、右翼団体からの上映中止の抗議行動や圧力がかかりました。
全国から何百台という街宣車が名古屋は今池の地に集まり、それらに乗って千人を越える連中が押しかける可能性があるのです。
朝日新聞が示唆するようにある「政治結社」が訪れ、話し合い(?)をしました。
警察は一応シフトをとるでしょうが、不測の事態には対応し得ないと言います。
公には「抗議行動」となっていますが、右翼自身が広言するように、その街宣車は彼らにとって「武器」なのです。おまけに、そんなときこそ「手柄」をと跳ね上がる鉄砲玉がいます。
街は騒然となり、入場者やスタッフの安全は極端な危険にさらされます。
上映そのものが、入場者に紛れた連中の場内での器物破壊や妨害工作により不可能になることも考えられます。
「不測の事態は阻止し得ない」とする警察の見解も、「話し合い」に訪れたその筋の連中も、それらの可能性を示唆するものでした。
これは平易な日本語で言えば「脅し」に相当するものです。
しかしそれは、先に見たように単なる言葉に留まらない可能性を持つのです。
名古屋シネマテークは、上映の延期に追い込まれました。
わずか50席に満たない映画館が、警察の保護も得られないまま、全国の右翼団体を相手に戦えるわけがありません。
私は、その間の経緯をスタッフから聞いています。さすがに「イケイケじいさん」の私でも上映強行を主張することは出来ませんでした。
結果として、自分の無力さへの激しい嫌悪、口惜しさ、ふがいなさに苛まれ、ここしばらくはよく寝られません。
稲田や福田は、「そんなことで表現の自由が奪われるのは遺憾である」とシレーッとして言っています。
しかし、火を付けたのは自分たちの事前検閲ではないか!
「さあ、私はここまでやったわよ、あとはあなたたち頑張りなさい」と右翼に丸投げしアジッたのは彼らではないか!
表現や言説の空間を狭め、黒い暴力に蹂躙させる状況を生み出しているのはお前たちではないか!
その証拠があります。今この映画に対して全国で圧力を強めている右翼団体は「日本会議」という団体で、稲田も福田も、その外郭団体、国会議員懇談会のメンバーなのです。要するに、同じ穴の狢なんのです。
本当に遺憾に思うのなら、その団体を通じて、妨害工作をしないように働きかければいいのですが、そんなことは一切しようとはしません。
「あとはあなたたちの出番よ」が本音なのです。
日本では、たった一本の映画すら権力と暴力に蹂躙されて観ることができないのです。
彼らには北朝鮮や、中国の人権問題を批判する資格はありません。
それと同じ発想をし、同じことを行っているのですから。
稲田という人は弁護士だそうです。
そうだとしたら彼女は私たちが弁護士に抱くイメージとはるかに隔たっています。
法に基づいて、人々の正当な権利を擁護するのではなく、自分の気に入らない言説や表現は、権力と暴力によって抹殺するという信念を持っているからです。
私の乏しいボキャブラリーでいうなら、それはファッシストというのであり、表現と言説を闇に葬る黒い暴力の実践者というほかないのです。
前回の日記での私の忸怩たる記述は以上の事柄に起因します。
決定したのは私ではありませんが、その経緯を知り意見を求められていただけに、私の中には暗く深い澱のようなものがつっかえています。
彼らが許容し、お目こぼしした映画のみを観なければならないとすれば、映画を観るということはいったい何なのか、悶々として自問しています。
名古屋がこんな状態なので、残された大阪のナナゲイに対し無責任にガンバレとは言えないのですが、それでもなんとか上映できればと思わずにいられません。
そして、それを起点に、既に延期や中止を決めた館も態勢を整え直し、団結して上映が実現できればとわずかな希望を失わないようにはしようと思うのです。