六月八日、秋葉原でまたもや無差別殺人時間が起きました。
奇しくも七年前の2001年のこの日、大阪の池田小学校では、児童殺傷事件があり、その被告宅間 守はやはり対象は誰でも良かったとその無差別性を語っています。
こうした殺人は、従前より全くなかったのではないのですが、最近とみに増えてきたように思います。
今年に限っても、明らかに無差別と目されるものがこれで五件目だそうです。
被害者にとっては理不尽な話で、たとえば私のように小心で、できるだけ人様の恨みつらみを買わないように生きてきたつもりでも、あっけなく殺されてしまう訳です。
それでは、なぜこうした殺人が無差別な対象に向けられるのかというと、それらが特定の対象への憎悪、利害得失とは次元が違うことに依ります。
いってみればそれは、いわゆる人倫というか倫理の世界からの、あるいは共同存在という人間のあり方からの離脱宣言なのですから、犯罪の対象やその形態は選ばないのです。
ところで、倫理とは人間相互の共同存在としての約束やルールのネットに自らを位置づけることにほかならなのですが、そしてまた、こうした倫理的約束とは未来に向かって自分をその共同体の一員として規定するものでもあるのですが、その共同存在のネットに将来ともに自らを位置づけるということ自身を放棄したとたん、彼ないし彼女はそうした倫理からは全くフリーになるのです。
他人への迷惑や、殺される者への責任を考えろといくらいっても無駄です。そうした言い分がが成立する構造そのものから離脱してしまっているからです。
ご承知のように池田小事件の宅間被告は、反省などの言葉は一切口にせず、ごたごたいわずに早く死刑にしろと主張するのみです。
弁護士や裁判官、そして検事までもが彼の反省の言葉を誘導するのですが、彼はそれらに対し小馬鹿にした態度をとるだけで決して応じようとはしません。そして、それはそれで、論理的一貫性をもっているのです。
そうした現象は、かつてなかったほど管理社会が緻密になっている反面、この共同存在のネットがきわめて脆く破壊されやすくなっていること、ないしは、本来はそうした共同存在を前提としてこそ自己であるはずの者たちが、かえってその帰属を疎ましく思い、容易にそれからの離脱を決意しうる状況にあるということを示しています。そこにこうした現象の病理性があるともいえますし、この病理はなかなかやっかいなのです。
年間、三万人に及ぶ自殺の増加も、格差社会での生活苦や将来への悲観などが原因として挙げられているのですが、一方、ここにはこうした共同体からの離脱志向も含まれているものと思われます。
こうした構造的な倫理からの離脱の特色は、利害得失や憎悪のように、現実的な対処や対応を越えたところで起こりうるものであり、しかも、加害ー被害の双方に、私たち自身が代入可能だということも肝に銘ずるべきだろうと思います。
今回の容疑者も、犯行を決意したのは三日前だといわれ、それまでは年収三〇〇万の労働者として普通に働いていたのです。ということは、それまでは、ここでこうしてそれを論じている私と、基本的に同じ地平にいたことになります。
彼の場合、どこかでタガが外れたのであり、それはまた、私には絶対起こらないことと言い切ることは出来ないのです。
正直に言えば、わたしも空想の世界では殺人者に身を置いたことがありますし、多かれ少なかれ、誰しもその可能性はあるはずです。
「人を殺してはいけない」というのは、あくまでも人間が共同存在する動物であるという前提に立った約束(倫理)ですから、それを離脱する者たちへの説得は原理的に不可能です。
よく、そうした人たちに、「人でなし」という罵倒が浴びせられますが、それは彼が意識して選び取った道であるとしたら、逆に賞賛であるのかも知れません。
だとしたら、そうした人たちを、あるいはそうするかも知れない私を、つなぎ止めることは不可能なのでしょうか。
その動機が、共同存在する人間への不信、絶望、無意味さであるとしたら、そうした不条理、不確定性は時間や歴史に即したものであり、それは変化しうるものであることをわかってはもらえないでしょうか。
時間は、事態そのものの変化とそれを受け止める私たちそのものの変化をもたらすということをです。
従って、共同体内での私たちの過程が無意味であったり、不条理であったり不確定であったにしろ、それらはそれを生き延びる者によってのみ受容しうることなのであり、他者を殺さず、おのれを死に追いやることなく、生き延びることによってのみその審問の資格者たり得るのだといってみることにわずかに望みがあるのかも知れません。
共同体の約束としての倫理を一時棚上げにしても良い、しかし、戻り道を塞ぐことなく、見つめ続けること、その形がいわゆるニートや引きこもりであっても構わない、とりあえず、殺し、死ぬことを棚上げしてみようということです。
それから、以上見たのは、個々人から見た共同体からの離反の形ですが、それは、共同体そのものの排除の構造と表裏を為していることを忘れてはなりません。
今日の共同体そのものが人を個として分断し、その彼や彼女を「生産力」や「労働力商品」として利用しうる限りで受け入れ、そうでない者や適合不全者には自己責任として切り捨ててゆく、そうした構造の中で、また、人々の共同存在者たることへの不全が生じてくるのではないでしょうか。
考えようによってはこれは、「テロとの戦い」より根源的かも知れません。
テロは、共同体の倫理のうちにあり、また、利害得失の論理のうちにあるからです。
「万人の万人に対する戦い」というホッブズの「自然状態」は、社会契約を導くための仮定の前提であったはずですが、どうもそればかりではないようですね。
奇しくも七年前の2001年のこの日、大阪の池田小学校では、児童殺傷事件があり、その被告宅間 守はやはり対象は誰でも良かったとその無差別性を語っています。
こうした殺人は、従前より全くなかったのではないのですが、最近とみに増えてきたように思います。
今年に限っても、明らかに無差別と目されるものがこれで五件目だそうです。
被害者にとっては理不尽な話で、たとえば私のように小心で、できるだけ人様の恨みつらみを買わないように生きてきたつもりでも、あっけなく殺されてしまう訳です。
それでは、なぜこうした殺人が無差別な対象に向けられるのかというと、それらが特定の対象への憎悪、利害得失とは次元が違うことに依ります。
いってみればそれは、いわゆる人倫というか倫理の世界からの、あるいは共同存在という人間のあり方からの離脱宣言なのですから、犯罪の対象やその形態は選ばないのです。
ところで、倫理とは人間相互の共同存在としての約束やルールのネットに自らを位置づけることにほかならなのですが、そしてまた、こうした倫理的約束とは未来に向かって自分をその共同体の一員として規定するものでもあるのですが、その共同存在のネットに将来ともに自らを位置づけるということ自身を放棄したとたん、彼ないし彼女はそうした倫理からは全くフリーになるのです。
他人への迷惑や、殺される者への責任を考えろといくらいっても無駄です。そうした言い分がが成立する構造そのものから離脱してしまっているからです。
ご承知のように池田小事件の宅間被告は、反省などの言葉は一切口にせず、ごたごたいわずに早く死刑にしろと主張するのみです。
弁護士や裁判官、そして検事までもが彼の反省の言葉を誘導するのですが、彼はそれらに対し小馬鹿にした態度をとるだけで決して応じようとはしません。そして、それはそれで、論理的一貫性をもっているのです。
そうした現象は、かつてなかったほど管理社会が緻密になっている反面、この共同存在のネットがきわめて脆く破壊されやすくなっていること、ないしは、本来はそうした共同存在を前提としてこそ自己であるはずの者たちが、かえってその帰属を疎ましく思い、容易にそれからの離脱を決意しうる状況にあるということを示しています。そこにこうした現象の病理性があるともいえますし、この病理はなかなかやっかいなのです。
年間、三万人に及ぶ自殺の増加も、格差社会での生活苦や将来への悲観などが原因として挙げられているのですが、一方、ここにはこうした共同体からの離脱志向も含まれているものと思われます。
こうした構造的な倫理からの離脱の特色は、利害得失や憎悪のように、現実的な対処や対応を越えたところで起こりうるものであり、しかも、加害ー被害の双方に、私たち自身が代入可能だということも肝に銘ずるべきだろうと思います。
今回の容疑者も、犯行を決意したのは三日前だといわれ、それまでは年収三〇〇万の労働者として普通に働いていたのです。ということは、それまでは、ここでこうしてそれを論じている私と、基本的に同じ地平にいたことになります。
彼の場合、どこかでタガが外れたのであり、それはまた、私には絶対起こらないことと言い切ることは出来ないのです。
正直に言えば、わたしも空想の世界では殺人者に身を置いたことがありますし、多かれ少なかれ、誰しもその可能性はあるはずです。
「人を殺してはいけない」というのは、あくまでも人間が共同存在する動物であるという前提に立った約束(倫理)ですから、それを離脱する者たちへの説得は原理的に不可能です。
よく、そうした人たちに、「人でなし」という罵倒が浴びせられますが、それは彼が意識して選び取った道であるとしたら、逆に賞賛であるのかも知れません。
だとしたら、そうした人たちを、あるいはそうするかも知れない私を、つなぎ止めることは不可能なのでしょうか。
その動機が、共同存在する人間への不信、絶望、無意味さであるとしたら、そうした不条理、不確定性は時間や歴史に即したものであり、それは変化しうるものであることをわかってはもらえないでしょうか。
時間は、事態そのものの変化とそれを受け止める私たちそのものの変化をもたらすということをです。
従って、共同体内での私たちの過程が無意味であったり、不条理であったり不確定であったにしろ、それらはそれを生き延びる者によってのみ受容しうることなのであり、他者を殺さず、おのれを死に追いやることなく、生き延びることによってのみその審問の資格者たり得るのだといってみることにわずかに望みがあるのかも知れません。
共同体の約束としての倫理を一時棚上げにしても良い、しかし、戻り道を塞ぐことなく、見つめ続けること、その形がいわゆるニートや引きこもりであっても構わない、とりあえず、殺し、死ぬことを棚上げしてみようということです。
それから、以上見たのは、個々人から見た共同体からの離反の形ですが、それは、共同体そのものの排除の構造と表裏を為していることを忘れてはなりません。
今日の共同体そのものが人を個として分断し、その彼や彼女を「生産力」や「労働力商品」として利用しうる限りで受け入れ、そうでない者や適合不全者には自己責任として切り捨ててゆく、そうした構造の中で、また、人々の共同存在者たることへの不全が生じてくるのではないでしょうか。
考えようによってはこれは、「テロとの戦い」より根源的かも知れません。
テロは、共同体の倫理のうちにあり、また、利害得失の論理のうちにあるからです。
「万人の万人に対する戦い」というホッブズの「自然状態」は、社会契約を導くための仮定の前提であったはずですが、どうもそればかりではないようですね。