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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

続・春の名残とその結末を「いかにとやせん」

2013-04-09 13:31:31 | 歴史を考える
 さて、前回に続き「元禄赤穂事件」についてである。
 ちなみに、上の「 」内がこの事件の名称であり、「忠臣蔵」というのはこの事件に題材をとった芝居などのタイトルである。? 
 既にみたように、藩主は切腹、お家は断絶で浪々の身となった旧浅野家の藩士の恨みつらみはかなりのものがあったと思われるが、その矛先が吉良に向かうのがよくわからない。吉良に一方的に切りつけたのは浅野の方であり、その行為を許しがたいものとして即日の切腹を申し付けたのは幕府(将軍は第5代徳川綱吉)であるの だから、主君の敵討ちとしてもいささか筋違いのような気もする。 ? 
 ようするに、吉良は、浅野の死やそのお家の断絶には少なくとも直接的には何ら関わりあってはいないからである。 ? 
 
 しかし、浅野の側の不満も分からないではない。ろくな取り調べもなく、その真相も有耶無耶にされたまま即日切腹になったからである。ただし、その批判の矛先は本来なら、片手落ち(と思われるよう)な審理を行った幕府へこそ向けられねばならないものであった。

                                       芽吹いた柳
 
 事実、この吉良邸への討ち入りは、幕府の裁定への批判的な意味合いを持つものであるが、それを直接ぶつけるには相手(幕府)が強大すぎるため、吉良を標的にしたとの説もある。

 一方、吉良側からいわせると、切りつけられた被害者であるにもかかわらず、敵討ちの標的にされたばかりか、討ち入り後にいたっては芝居などにより後世まで悪役の烙印を押され続けたのだから、やはり憤懣やるかたないものがあるであろう。 ? ? 

 どうしてこんなことが起こったのであろうか。ひとつには刃傷沙汰の舞台が単に江戸城内であったというばかりではない。その日は、実に天皇の勅使が下向した一連の行事の最終過程、幕府側から朝廷への奏上が行われる日であって、浅野の行為によってその手はずが大幅に狂い、天皇家の権威を後ろ盾に政ごとを行って いた幕府にとって大きな汚点となったという事情がある。 ? 

 事実、勅使たちはその失態を嘲笑していたのではという記録もあるから、幕府としては寸暇も置くことなく、即刻浅野を厳罰に処することによって決着をはかることが唯一、朝廷への恭順を改めて示すことだったともいえる。 ?
         
                  ミツバツツジ

 にも関わらず、討ち入り後の浪士たちへの処分はある意味では寛大であった。幕府の一部には、幕府そのものが下した過去の裁定への反逆であり、夜分、集団で 幕臣の邸宅を襲い、殺戮の限り(死者23人)を尽くすのは火付盗賊と同様であり、磔獄門に処すべきであるという意見もあった。これは当時の法に照らしても 妥当といえそうである。 ? 

 ところが、火付盗賊扱いではなく、切腹という武士の作法に習った処断がくだされたのは、そうした彼らの「忠義」が、今後幕藩体制を維持してゆく上で有効な要素であるとの政治的判断が先行したからである。加えて、いわゆる判官びいきともいう世論をおもんばかったともいえる。 ? ? 

 よって、浅野の残党は忠義の士であるとされ、反面、吉良は悪を背負わされる(この折に、吉良家も取り潰しに遭っている)ことになるのだが、いってみれば両者ともに、幕府の体制維持のためのコマとして利用された感がする。 ? 

         
                  マサキの若葉

 いってみれば幕府は、そこで職を失ったり殺傷された人たちの立場から法の適応などを考えたのではなくて、はじめからひたすら、幕藩体制の維持強化になにが必要なのかという政治的な判断のみに即して動いたといえる。 ? ? 
 討ち入りから数えて、210年ほど経つのだが、救いがあるのは、赤穂・吉良の両地において、今日では友好的な関係が樹立され、イベントなどを通じての相互交流があるということである。 ? 

 日本が近隣諸国との特殊な関係にあったのが70年近く前、それらは相互の交流のなかにいまも様々な軋轢となって影を落としている。本当に笑って昔話にできるのには、やはり200年の歳月が必要なのだろうか。 ? ?
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春の名残とその結末を「いかにとやせん」

2013-04-08 03:10:20 | 歴史を考える
 枝垂れ桜など遅咲きのものはまだ花をつけているが、ソメイヨシノなどはもう散ってしまった。冬の間地味な佇まいを見せていた木々が若葉をつけ始め、緑が次第にあたりを支配しようとしている。
 散った花が水に漂う花筏の風情はよしとしても、道端で折からの雨に打たれて薄汚れたりしているのを見るにつけ、春の名残ということばが頭をよぎり、そしてその連想からひとつの歌が浮かび上がる。

   風さそう花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとやせん

          
                お決まりの花筏

 このうたは、江戸城本丸の大廊下(松の廊下)で、吉良上野介に対し刃傷沙汰に及んだ浅野内匠頭長矩が、切腹を命じられた際の辞世のうたとされる。春の名残のなかに若くして(33歳)死を迎える我が身への思いと、同時に、吉良を討ち果たせなかった無念の思いが込められているといわれる。時に、1701年4月21日(旧暦では元禄14年3月14日)のことであった。
 事件の審理は素早く、浅野長矩の助命の動きも多少はあったようだが、結論は切腹と浅野家取り潰しで、なんと彼が事件を起こした11時40分頃から7時間後の18時30分には、浅野は切腹させられている。

 この話は、芝居の『忠臣蔵』などでさまざまに脚色され、それによれば、吉良のイジメに耐えかねた浅野がついに堪忍袋の緒を切って刃傷沙汰に及んだことになっているが、当時の証言などを参照すると、まったく違う実相がみえてくる。
 芝居では、松の廊下で対面した浅野に対し吉良が悪口雑言の限りを尽くし、それが殺傷事件の発端であるように脚色されているが、実際には、吉良が他の人と何か業務上の打ち合わせをしているところに通りかかった浅野が、突然背後から斬りかかり、まず背中に傷を負わせ、驚いて振り返った吉良の額に2つの傷をつけたというのが当時松の廊下にいた他の人の証言として一致している。

        
          さくらまつりの幟がはためくが路上には散った花が

 浅野が突然斬りつける理由も実際のところ判然としていない。勅使下向の接待役になった浅野に対し、そのノウハウを吉良が教えなかったというのが芝居などで採用されている理由だが、実際には、浅野がその役に任じるのはそれが二度目であり、不案内であったとは考えられないという。
 その他、塩田の経営を巡る競争だとか、稚児の取り合いだとか、あるいは、浅野自身の心理的内因によるものだとか諸説があるが、これと確定できるものはないという。

 こうしたこともあって、芝居などでは徹底した悪役で卑怯者とされる吉良に対し、地元の愛知県、特に三河地方ではまったく違う評価がある。
 治水や新田開拓に力を注ぎ、今もなお、吉良堤という堤防が残っていたり、彼が赤馬に乗って領地を見回りをしたことに由来を持つ郷土玩具・赤馬も存在する。
 しかし、これらにも地元びいきの誇張がなきにしもあらずである。

        
            しだれは今盛ん 背後のソメイヨシノは葉桜

 もっとも私の知り合いで、赤穂城かなんかの資料館へ行った折、「浅野長矩などは思慮を欠いた短気者にすぎない。それに比べてわが吉良義央は・・・・」と一席ぶって、現地の案内人を辟易させたひとがいるというから、愛知県人には吉良への一方的な悪評に耐えかねている面が多分にあるのだろう。

 その吉良義央も、松の廊下の事件の後、1703年1月31日(旧暦では元禄15年12月15日…討ち入りは14日夜半だが絶命は15日未明)に赤穂浪士47名の襲撃によって命を絶たれるのだが、この過程にも疑問は残る。                     (次回へ続く)
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憂春・ダラダラ~ッとした日記・夢

2013-04-06 00:50:31 | よしなしごと
 夕食を済ませて、さあ、昨日の会合で与えられた宿題をと机に向かいました。
その時、周りのものがすべて一回転したように思ったのです。
でも、一回転したのはものたちではなく私の方だったのです。
私が軽いめまいを起こしたのでした。
周りが揺れる地震も怖いのですが私が揺れるというのも怖いですね。

          

 気がついたらパソコンのキーボードに顔をうずめていたのはもう何年前のことだったでしょう。
その時私は、脳梗塞を患ったのでした。
さいわい左手が麻痺しただけで、10日ほどの入院と1ヶ月余のリハビリで治癒しました。

 それの再来かなと一瞬思いました。
首がやたら重いのです。
いえ、頭の中身のせいではありませんよ。
中身は発泡スチロールのようなものですから。

          

 でも用心にと、デスクに両方のゲンコツを重ね、その上に頭を乗せてじっとしていました。
スーッと気が静まる気配がしたのですが、頭を上げて何かをする気にはまだなれません。
しばらくそのままにしていました。

 ブルブルっとして目覚めました。
不覚にもそのまま居眠りをしてしまったのです。
昼間の陽気は良かったとはいえ、夜はまだ冷えます。
やはりこのままではまずいと思いました。
着の身着のまま、とりあえずベッドに横たわりました。

          
 
 ほんの数分、いや10分も横になっていたら完全に回復するだろうと思ったのです。
そして、またしても目覚めました。
しかし、横たわってからなんと2時間が経過していたのでした。目覚めてもしばらくは、自分がいつどこに居るのかがわかりませんでした。
ひとつにはいつもとは違う寝方をしたからだと思います。
そしてもうひとつは、その折みた夢が異常だったからです。

 私は毎日いろんなものやいろんな人に会います。
会った瞬間に自動的に分析装置が働き、その分類をはじめます。
あれは危険なこと、これは危険ではないこと。
これは未来につながること、あれはこれっきりのこと。

          

 それらはもっぱら私の意識に対してなにものかということであって、相手が何であるかとはほとん関係がありません。
こうして私は仕分けをし、私が私であることをを守ろうとします。
その時私は、無慈悲にも、これは記憶にとどめること、これは忘却の淵へと沈めることと峻別するのですが、記憶は必ずしもそうした仕分けに従ってくれないのです。

 今回の夢がそうでした。
もう数十年前、仕事などの関係で行きずり同然に関わりあった複数の人たち、意識のうちでは顔も名前もとっくに失念している人たちが夢のなかに登場し、しかもちょい出ではなくて、ほぼ主役級で私を恫喝したり、私に説教をしたりするのです。
私はといえば、完全に数十年前の私に戻って彼らと渡り合っていたのでした。

        

 これってなんなんでしょうね。当時、無意識のうちに彼らに対してあるコンプレックスをもっていたのでしょうか。それにしても、数十年後の今になってなんでそれが・・・。
それとも、現在の私のコンプレックスの対象が、ミッシングリングとしての何らかのキーワードを介して彼らと結びついているのでしょうか。

 いずれにしても不思議な話で、普通なら死ぬまで決して思い出すこともなかったであろう彼らとそしてその一連のつながりが、夢のなかにまざまざと現れるのですから。
ですから、目覚めた時、いまはいつ、ここはどこ、そして私は誰といった状態になったのでした。

 めまいを起こしたのは、私の肉体ではなく意識であったのかもしれません。
だから、私が私ではないという私に出会わねばならなかったのでしょう。





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水村美苗『母の遺産 新聞小説』 ある近代の受容の物語

2013-04-03 03:46:08 | 書評
 サブタイトルとして「新聞小説」と付け加えられているのがクセモノですね。
 最初は、文字通りこの小説が新聞に連載された1)ことによるからだと思っていたのですが、読み進むうちにもっと深い含意があることに気づきました。それに気づくと、この取って付けたような「新聞小説」が、実は、この小説のメインタイトルでもおかしくないと思うようになります。
 ようするに、「母の遺産」と「新聞小説」が共に主題であるような二重の構造を持った小説なのです。

           

 「母の遺産」の方は、祖母、母、主人公(とその姉)の三代の女性の話2)になるのですが、具体的には母の最期に立ち合う主人公の話と、その夫との葛藤が絡みあいながら進みます。
 
 前半は母との関係を主とした部分なのですが、後半は芦の湖畔の由緒あるホテルに、何らかの形で死を意識した滞在者たちが集うというシーンになります。
 この部分は古色蒼然とした「探偵小説」の舞台を彷彿とさせる趣があるのですが、事実ある種の謎解きなどもあり、巧みなストーリー・テラーとしての水村さんの面目躍如たるものがあります。

 こうして、「母の遺産」に関しては女性三代の物語と、主人公とその夫との関係のある決着をもって終わるのですが、それらの諸関係の通奏低音のようなものとして流れているのが、「新聞小説」に象徴されるこの国での近代の受容に関する話なのです。

              

 主人公の祖母は「お宮さん」とよばれていますが、それは読売新聞に1897年(明治30年)1月1日~1902年5月11日まで連載された尾崎紅葉の新聞小説『金色夜叉』のヒロイン・お宮からとれれていて、祖母はこの新聞小説を読み、近代的恋愛観に啓蒙され、それを実践した人として描かれていますし、その娘である主人公の母、紀子もまたそうした観念をよりダイナミックに生きた人として描かれています。

 そればかりではありません。現代を生きる主人公やその姉もまた、そうした観念の連続性のうちに生き、恋愛や結婚をしてきたのです。
 その意味では、この小説は、近代以降当たり前になっている恋愛観や結婚観、端的にいえば恋愛と結婚を連続性のあるものと信じて疑わない観念への批判的反省を含んでいます。
 それは同時に、主人公の挫折そのものを通じて語られるだけに、よりリアルともいえます。

 一方、男性の側では、そうした観念を一応は信奉しながら、それをキッチュに生きるスノッブがはびこることとなります。
 しかし、そうしたスノッブとは異なるいわゆる凡俗にたいする作者の視線は温かいものがあります。たとえば、姉婿にたいするそれや、ホテルで出会う、おそらくは見合い結婚で添い遂げてきたであろう老夫婦へのまなざしがそれです。
 そしてそれは、近代的自我に発する恋愛観や結婚観へのアンチ・テーゼとしてむしろ肯定的にすら描かれています。

           

 尾崎紅葉の『金色夜叉』がそうであったように、新聞小説は西洋近代の恋愛観などを広く庶民に啓蒙する役割を果たしました。
 それに先立ち、一九世紀中葉のフロベールの『ボヴァリー夫人』は、まさに恋愛小説の世界を生きるセンセーショナルな存在なのですが、この水村さんの小説のなかでも、それは、主人公がホテルへの長期滞在に携帯する唯一の本として象徴的に登場し、その時々の小道具として機能します。
 それと同様、時折登場するプッチーニのオペラ、『ボエーム』も、主人公が求婚された屋根裏部屋との対比で、効果的な役割を与えられています。

 ようするに、「新聞小説」は、主人公の三代にわたる物語を規定する近代が、日本の庶民に広く伝えられた窓口の役割を担ったのであり、したがってそれが、この小説のもう一つのモチーフでもあるとする所以なのです。
 ただし、それらがむしろ幻想的な自我のあがきとして面をもつものであるとして、必ずしも肯定的に捉えられていないことは既に述べたとおりです。

 余談ですが、主人公もその姉も、それまでの経緯もあり、母親に対して早く逝って欲しいという憎悪にも似た感情をもっていて、それを隠そうともしないのですが、その割に、その母に対し、実に思いがこもったこまめなケアーをしているのには感心しました。
 なお、水村さんの描写は的確にしてリアルで、しばしば怖いものをも感じさせます。


1 この小説は『読売新聞』土曜朝刊に2010年1月から11年4月までの間連載されたものです。したがって最終回に東日本大震災に触れた箇所がありますが、いくぶん、取ってつけたような感があるのは否めません。まあ、突然のことですからやむをえないでしょね。

2 この親子三代の物語は、水村さんの前作『本格小説』や『私小説』などで部分的に触れられています。むろん、どこまでが事実でどこからが創作かは判然としませんが、そうした描写の基礎となる事実はあったようです。
 

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