「怒らないで生きるには」/アルボムッレ・スマナサーラさん&しりあがり寿さん
これは図書館でたまたま手に取った本です。返却棚にありました。
これは衝撃的な本で、今まで何冊も感想を書いてきましたが、これはいろんな方にぜひぜひ読んでいただきたい、そして感想をうかがいたいと思う本である。
まず衝撃的なのが、冒頭のマンガ。
1人の女の子がほしかったケーキが売切れてしまって、お母さんに怒る。そこからお母さんが店の主に怒り、主がバイトの女の子に怒り・・・・次々に怒りが連鎖していって、ネットのたくさんの悪口や、怒りの政治デモ、最後には国同士が怒りあい戦争に至る・・・という内容である。
「怒らないで生きるには」
後半は、このマンガを描いた、しりあがりさんが、こちらのアルボムッレさんに「怒ることって何ですか?」「どうすれば怒らないでいられますか?」という質問をしていき、アルボムッレさんがそれに回答するという形式を取っている。あっという間(というと大袈裟ですが)に読めてしまう本である。
こちらのアルボムッレさんはスリランカの上座仏教長老という偉い方のようである。
「怒らなければならない事は何も無い!」と断言している人である。例えば、子供を殺された親御さんについても、「それでも怒ることはない」と言い、アメリカの9.11テロで息子を殺された母親で、テロへの報復に反対する活動をしていた人がいることを評価している。自分の息子は殺されてしまったが、テロへの報復の侵攻は自分と同じ悲しみを更に増やすことになると考えたのだろう。
正義なんて状況によって幾らでも変化する。
正義のための怒りや報復は(どのような場合でも)間違っている。
その考えが1冊に渡って語られているのである。
私は個人的に、自分が幼稚園時代にクラス中から嫌われていたので、最近よくある学校のイジメ事件が大嫌いだ。よってたかってグループで、1人の人間を追い詰めるような人間は二度とシャバに出られなくてもいいと思っていた。でも、そういう彼らでもやはりどこかで「事情」はあるに違いない。
幼稚園時代にいじめられたことや、家から出て行った元夫など、「こんなの許せない!」と思っていた人間が、今までの人生で何人かいたのだが、彼が加害者で自分が被害者なのかはもはや言い切れない。というのは、自分だって言い逃れのできない加害者になることもあるからと身にしみて分かったのだ。
もちろん法や罰則は必要である。
でもその上で、それが終わった時みんなで過去の事を問わない、上から目線にならない、「またもう1度やりなおそう」と言う気持で受け入れることは大切なことだと考えた。
そして冒頭のマンガでは、バイトの女の子が家に帰ってきて同棲している彼氏が仕事を探さないことに逆切れして怒っている場面が書いてある。その様子が、息子が働かないことに怒っている過去の自分とそっくりで恥ずかしいを通り越して悲しくなってきた。
私は数年前までこうして、息子を怒鳴り続けてきた。
働くこと、仕事を探すことが正論だとばかりに、上から怒鳴りつけてきたのだ。(過去のブログを見ればご覧の通りである)
自分は正しいことを言っている。間違っているのはkekeだ。
どんなに怒っても正しいと思ってきた。
でも、ちっとも正しくなかった。
この本では「怒ること」と単純に書かれているが、私はそれだけでなく「正論を通すこと」全てに該当すると思う。
スポーツや成績で勝ち負けや順位ができるのは当たり前。それがないと人は成長できないから。
でも負けても、「あ、これでは負けたけれど、他の面では否定しない」と言う考え方は大切である。仕事をしてないという一面があっても、そこでその人全てを否定することは浅はかなのである。むしろそこでその人全てを否定できる方が疎かなのではなかろうか。
このお坊さんは、今のアメリカのテロ報復や核兵器の維持をはっきり否定している。正義と言う報復は間違っているというのである。
私は中国や韓国が好きでないので、中国産のものはなるべく買わないし、韓国の音楽やドラマは見なかった。(皮肉にも仲の良い友達は好きな人が多いけれども)
でも、政治的な問題で全てを否定するのも正しいとは言えない。彼らは彼らの事情もあるのだろう。
本当の世界平和になるためには「怒る」とか「正義でやりかえす」とか「正しさを主張する」と言う方法では無いのかもしれない。私は割りと安倍さんよりなので、尖閣諸島も竹島も自己主張していいのではないかと考えていた。
でもその考え方は「世界平和」と言う意味では遠ざかってしまうのかもしれない。憲法9条を守るという考え方に一律の不安を持ってきたが、どこかの国がどこかの民族がそれを本当に正しいと思うのなら、体を張って命をかけて、それを世界にアピールするという考え方もあるかもしれないなぁ、と思う。
自分達は何もなくなってしまうけれど、もしかしたらその事で、それから後の世界の考え方は変わるかもしれないね。
「自分はこれを欲しい」と言う気持を持ち続けたままで、人に何かをアピールするのは説得力が欠けている。
そんなことを思った本でした!
amazonでの感想はこちらにあります。
ちなみにこの本を読んで、身近のある人のあの普段の怒りようはどうだろう?と言う思いがフツフツ沸いてきた。
でも、その人も怒らなければいられない事情があるのだろう。
私達ができることは、それを受け入れつつも、自分をほがらかにして、ほがらかな気持を周りにも伝染させて、いつかあの人がもっとほがらかな人に変われるように・・・時間を掛けて願っていくことだと思う。(少しイヤミ?)
これは図書館でたまたま手に取った本です。返却棚にありました。
これは衝撃的な本で、今まで何冊も感想を書いてきましたが、これはいろんな方にぜひぜひ読んでいただきたい、そして感想をうかがいたいと思う本である。
まず衝撃的なのが、冒頭のマンガ。
1人の女の子がほしかったケーキが売切れてしまって、お母さんに怒る。そこからお母さんが店の主に怒り、主がバイトの女の子に怒り・・・・次々に怒りが連鎖していって、ネットのたくさんの悪口や、怒りの政治デモ、最後には国同士が怒りあい戦争に至る・・・という内容である。
「怒らないで生きるには」
後半は、このマンガを描いた、しりあがりさんが、こちらのアルボムッレさんに「怒ることって何ですか?」「どうすれば怒らないでいられますか?」という質問をしていき、アルボムッレさんがそれに回答するという形式を取っている。あっという間(というと大袈裟ですが)に読めてしまう本である。
こちらのアルボムッレさんはスリランカの上座仏教長老という偉い方のようである。
「怒らなければならない事は何も無い!」と断言している人である。例えば、子供を殺された親御さんについても、「それでも怒ることはない」と言い、アメリカの9.11テロで息子を殺された母親で、テロへの報復に反対する活動をしていた人がいることを評価している。自分の息子は殺されてしまったが、テロへの報復の侵攻は自分と同じ悲しみを更に増やすことになると考えたのだろう。
正義なんて状況によって幾らでも変化する。
正義のための怒りや報復は(どのような場合でも)間違っている。
その考えが1冊に渡って語られているのである。
私は個人的に、自分が幼稚園時代にクラス中から嫌われていたので、最近よくある学校のイジメ事件が大嫌いだ。よってたかってグループで、1人の人間を追い詰めるような人間は二度とシャバに出られなくてもいいと思っていた。でも、そういう彼らでもやはりどこかで「事情」はあるに違いない。
幼稚園時代にいじめられたことや、家から出て行った元夫など、「こんなの許せない!」と思っていた人間が、今までの人生で何人かいたのだが、彼が加害者で自分が被害者なのかはもはや言い切れない。というのは、自分だって言い逃れのできない加害者になることもあるからと身にしみて分かったのだ。
もちろん法や罰則は必要である。
でもその上で、それが終わった時みんなで過去の事を問わない、上から目線にならない、「またもう1度やりなおそう」と言う気持で受け入れることは大切なことだと考えた。
そして冒頭のマンガでは、バイトの女の子が家に帰ってきて同棲している彼氏が仕事を探さないことに逆切れして怒っている場面が書いてある。その様子が、息子が働かないことに怒っている過去の自分とそっくりで恥ずかしいを通り越して悲しくなってきた。
私は数年前までこうして、息子を怒鳴り続けてきた。
働くこと、仕事を探すことが正論だとばかりに、上から怒鳴りつけてきたのだ。(過去のブログを見ればご覧の通りである)
自分は正しいことを言っている。間違っているのはkekeだ。
どんなに怒っても正しいと思ってきた。
でも、ちっとも正しくなかった。
この本では「怒ること」と単純に書かれているが、私はそれだけでなく「正論を通すこと」全てに該当すると思う。
スポーツや成績で勝ち負けや順位ができるのは当たり前。それがないと人は成長できないから。
でも負けても、「あ、これでは負けたけれど、他の面では否定しない」と言う考え方は大切である。仕事をしてないという一面があっても、そこでその人全てを否定することは浅はかなのである。むしろそこでその人全てを否定できる方が疎かなのではなかろうか。
このお坊さんは、今のアメリカのテロ報復や核兵器の維持をはっきり否定している。正義と言う報復は間違っているというのである。
私は中国や韓国が好きでないので、中国産のものはなるべく買わないし、韓国の音楽やドラマは見なかった。(皮肉にも仲の良い友達は好きな人が多いけれども)
でも、政治的な問題で全てを否定するのも正しいとは言えない。彼らは彼らの事情もあるのだろう。
本当の世界平和になるためには「怒る」とか「正義でやりかえす」とか「正しさを主張する」と言う方法では無いのかもしれない。私は割りと安倍さんよりなので、尖閣諸島も竹島も自己主張していいのではないかと考えていた。
でもその考え方は「世界平和」と言う意味では遠ざかってしまうのかもしれない。憲法9条を守るという考え方に一律の不安を持ってきたが、どこかの国がどこかの民族がそれを本当に正しいと思うのなら、体を張って命をかけて、それを世界にアピールするという考え方もあるかもしれないなぁ、と思う。
自分達は何もなくなってしまうけれど、もしかしたらその事で、それから後の世界の考え方は変わるかもしれないね。
「自分はこれを欲しい」と言う気持を持ち続けたままで、人に何かをアピールするのは説得力が欠けている。
そんなことを思った本でした!
amazonでの感想はこちらにあります。
ちなみにこの本を読んで、身近のある人のあの普段の怒りようはどうだろう?と言う思いがフツフツ沸いてきた。
でも、その人も怒らなければいられない事情があるのだろう。
私達ができることは、それを受け入れつつも、自分をほがらかにして、ほがらかな気持を周りにも伝染させて、いつかあの人がもっとほがらかな人に変われるように・・・時間を掛けて願っていくことだと思う。(少しイヤミ?)