きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

私の年末

2012-12-22 | 今の会社
お歳暮と言えば次は年賀状である。

私は後になるとイヤになるのでサッサと作って、もうポストに入れた。
先月から年賀状をあちこちで吟味し、クリスマス小物を買って飾ったり、お年賀もあちこち見て選んだりしてした。イルミの写真も撮ってみた。
あまりに長らく楽しみにしすぎたお陰さまで、自分個人の中ではクリスマスも正月も終わった感がある。

なので、クリスマスイブも白髪染めに行くぐらいしか予定がないが(それも世間から背くかのごとく夕方に予約しているよ。)淋しくも何とも無く、今更ながらの世間様の遅れた盛り上がりようを高みの見物でも致しましょうかと言う心の余裕。
あぁこれぞ、私流の冷めたクリスマスの過し方である。(なんちゃって。)

でもこのぐらい余裕をかまして自分のペースで生きて居たいのさ。


会社の年賀状はまだ出してないのが1枚あり、なぜ出していないかと言うと「出すべきかどうか悩んでいる」からである。
それは某設計士さんへの年賀状である。
何がためらわせているのかと言うと、喪中のはずなのに喪中ハガキが届かないからである。

普通だったらうっかり忘れていて、うっかりポストに入れているはずなのだが、先日某設計士さんのお父様から奥様が亡くなられた喪中のハガキをいただいた。それで「あ、そうだ、あの先生のトコも喪中なのでは」と思い出したのである。

たぶん、喪中のはずである。
しかし待てども待てどもハガキが来ない。
この状態で年賀状を出さない事は「喪中だと気を利かせた」つもりでも「そう言う間柄ではない」と誤解されてしまうのではないかと小さい胸が痛むのである。(ましてや個人事務所の先生である。)

そんな中、その先生からたまたま別件で電話があり、その時思い切って訊いてみることにした。

「あのぉ・・もらったお電話であれですが」と言い、「先生の所は喪中ではなかったでしたっけ?」と尋ねてみると、「あぁほんとはそうなの」と言い、「でも仕事関係はやめたんだ、だからハガキも出してないの。」と言うので私も念には念をいれで、「そうなんですか、それでは年賀状は出しても大丈夫ですか?」と尋ねると、「うん、会社の方は出さなかったからスルーにしたからね。」と言う。
(そんな喪中ってありなのか?と思いながらもポストに入れる。)

それから新年会の準備。
その案内状はとっくに出した。
これからは人数確認である。

まだ返事の来ない人に片っ端から電話して、来るかどうか早く返事を出せと言うのである。

その中で毎年来ない方が2名居る。
1人のNさんは遠いのが原因で面倒なのだろうと思われるが、nanuさんが「これだけ仕事を出しているのに、毎年来ないって変じゃないの?他の業者さんもあの人誰?って言ってるよ」と言うので「そう言う風に案内状に書きますか?」と言うと、「オレが電話する」と言う。
その人からまだ返事が来ていない。

それからもう1人のFさんについては、人柄も良くお酒が飲めないようにも見えず、何故来ないのかよく分からない。おそらく他の関係者との絡みがあると思われ、私は何回か「某会社さんは今年は見えませんからもし良かったらどうぞ」と誘ってみたがやはり断わられた。
Fさん自身も断わりにくいのを申し訳なく断わっているのが感じられ、私は他の誰が見るわけでも無いので全然FAXで返事をしてもらって構わないのに、と思うのだがそれも言えずに、また今回も電話する事にした。

「あのぉ・・新年会のご案内をFAXで送ってですね、そろそろ返事を伺いたいのですが。」
「あぁ・・それでは欠席でお願いします。(小声)」
「分かりました。」

と電話を切る所までは良かったんだが、実は欠席の「ケ」だか出席の「シュ」だか、よく聞き取れなかった。
再度訊くのが申し訳なくて訊き返すことができずに切ってしまったのだ。

「よく聞き取れなかったけど、たぶんいつも来ないから欠席だろうと思うけどそれじゃまずいかしら」と言うと「まずいでしょ」と言われたので、心を鬼にしてまた来週もう一度電話して尋ねる事にする。
(それだったら、あの時訊き返すんだった。。。(ToT)気まずい)

今年もお歳暮話

2012-12-21 | 今の会社
月曜の朝、社員の机の脇にそれぞれお歳暮が2箱づつ分けられていた。
ちなみに私の所にはビール(小箱)と油があった。

Aさんは「あの箱は日曜日に社長が分けたらしい、土曜はなかったし、日曜の夕方会社に行った時にはもう置いてあった。」と言う。
「どうして誰も居ない時に1人でわざわざ分けるのか?」と言うのがAさんの持論である。

「社員の前では分けにくいんでしょうねぇ。」
「みんなで分けろよって一言で済むのに。」

「社員に全部あげるのはもったいないからではないでしょうかねぇ」と私は言う。
オレは考えたくない、とAさんは言い、あの人が残りのお歳暮を自分の車まで1人でエッチラオッチラ運んでいるのかなぁ、何往復もして。と言う。
「きっとそうなんでしょうねぇ。」と私も言う。

そのような会話を半年に1度している訳だが、今年は「しかも中身はろくに見てない」と言うので、「そうですか?」と言うと、「オレのは何だったと思う?」と言うので、何でしょう?と答えると、「飲む酢。」と言う。

飲む酢!!私はこう叫び、それはありません、それと知ってたら社長は誰の所にも置きません、それは中身を知らなかったんですよ!
何故なら前回、それがどこにも置かれずそこらに転がっていたから・・・と言おうとしたが、「オレもそれと分かって置いたのでは無い事は分かってる」とAさんは言う。「外箱をみたけど、飲む酢とはどこにも書いてなかった。」

「たぶん、ワインか何かだと勘違いしたんですね。」
「そうだよ、重さでそう思ったんだ。オレも箱を持ってビンぽいなと思って振ったら、ビンの他にカサカサ小さい音がしてね。」
「それは何だったんですか?」
「何だろうと思ったら、飲む酢をつぐオチョコ。」

そして二人でそりゃないよね、アハハハと笑った。


いや、せっかく選んでくれたものに笑ってはいけない。

私はつい先日社長に「お歳暮を持って行きたいから買ってきてくれ」と言われて、社長のキャラクターを考慮して、わざわざ車を飛ばして老舗の有名百貨店まで行って、お歳暮を買ったのである。

その時(自分自身はお歳暮を買わないので)、ああでもない、こうでもないと、迷いに迷った挙句、またまた社長のブランド好きを十二分に考慮して、それから相手がお年寄りなので歯が無くても食べれる某有名ホテルのスープセットにしたのだった。。。

そしてその時、「そうか会社に来るお歳暮の一つ一つも、配る人はみんなこうして真剣に悩んで迷って選んだ究極の1品だったのだ、それに文句を言うとは何たることよ」と心に誓い、以前お歳暮に毎年届く鉢植えについてブログでケチをつけたことをとても反省した。


・・・反省したはずだが、またまたついうっかりアハハと笑ってしまった。
でも、アレに関して言うと、やはり好き好きがあるので、この手の贈り物には果たしていったいどうなのであろうか、とこればかりは考える。

そして今年もシクラメンが届いたが、まめに水をあげているので、こちらはまだきれいに花を保っているのだ。

青空

2012-12-19 | 日記
私の「ありがたい」ブームはまだ続いている。

先週の土曜日は駅の階段を駆け上がりながら「こんなに駆け上がっても膝が痛くない!」と思った。

昨日の雨上がりの朝は、空がまぶしくて、通りを行き交う人がまさに「これから」始まろうとしている!と思った。
まだまだこれから寒い冬が続くはずなのに、まさに「これから」世界がゆっくり始まろうとしているなんて。

そしてその日は税務署に寄るために運転していたのだが、道端で幾つもの花が咲いているのを見つけた。
「こんな寒いのに!」いったい何の花だったのだろう。
分からないままに通り過ぎてしまったけれど。

冬なんて、ただ寒くて春を待つためにあるようなものだと思っていたけれど、目を見張ると、いろいろなものが見えるのだった。
クリスマスや正月がもし無かったとしても、私はこの季節でそれなりの楽しみをみつけて生けて行けるのだ。

当たり前のことかもしれないけれど、大発見。


そんな風に思い始めてから、最近いろいろなものを感じるようになった。
空、色、それから形だけではないもの。

例えば人。
人を感じるようになった。

「この人はこう言う感じなんだな」とか「こう言う考え方なんだな」
そう言うこと。

それも当たり前のことかもしれないけれど、今までとは若干違う温度を感じるようになったのである。

私はあえてそれに色をつけないように心がける。
例えば、「よい」とか「ちがう」とか。
できれば「好き」とか「きらい」とか。
そう言う考えを持たないようにした。
ただ、感じたことはそのまま感じておこうと思った。

毎日「ありがたい」「うれしい」と言う感じ方を持っている事で何がいったい変わるんだろうと思っていたけれど、いろんなものが違って見えた。
例えば、空の青さもより一層くっきりして、曇り方さえも味があるなと思ったりした。

雨の日もそれはそれで面白い発見があるゾと思えたりした。


そうやって考え始めて行くと、何か「ん?」と立ち止まることがある。
空は晴れてないといい天気では言えないんじゃない?と言う考え方に出会うことがある。

その時、ん?と立ち止まることがある。

ちょっと前は自分もそうだったかもしれない、と思う。

でも実際のところ、何でも好きでいられた方が、好きな数の多さで人生は楽しく回るような気がする。
今までは「こんな自分」では申し訳なくて受け取れなかったものが、今なら喜んで受け取れるような気がした。

今はこんな自分に育ててくれた両親に「ありがとう」と言いたい。
ちょっと遅かったかもしれないけれど。

文明利器

2012-12-18 | 日記
さて、ドコモから初めての請求書が届いた。

自動天引きになってしまっているので、納得できなくてもお金は引き落とされてしまうのだが。。。
初めの請求書である。

そして見てみると、iモードパケット代みたいなものが引かれている。
「ハテナ。メールはたしか無料通話料分で使えますと言う話だったが。。」
無料通話分は100円しか使っていないのに、何故iモード代が掛かっているのか。

私はPCを開いてマイドコモにログインし調べてみると、やはりメールでiモードを使っているのである。
それも受信メールまでパケットを使っている。

早速、店にまで行き請求書片手に「話が違う」と文句を言うと、「お客様はパケホーダイダブルに入ってますね」と言われ、そうですよと答えると、パケホーダイに入ると自動的にメールは無料通話分からではなく、パケホウダイから換算されてしまうのです。」と言う話である。

ちなみにパケホーダイをはずすのは、ここで手続きしなければならないのか?と尋ねると、「ここか、インフォーメーションデスクに電話してください」と言う。(それだけでも通話料が掛かるのだろうか。)
今ですと30分待ちです等と言うので、また考えて出直すことにした。

それがおそらく世間の常識なのだろうが、受信メールでも金が掛かるとは知らなかった。
いつも会社に来たメールも携帯に送っていたが、これを即行転送を止めた。
こんなんでパケパケ払っているのだから、アホ丸出しである。

ほんと、携帯は金が掛かる。
携帯と人生を共にすると決め、全部マックスな使い方をすれば、それはそれでいろいろ使えて便利なのだろうけど、私は外に出ないので、そこまでアレに腹を括れないのだ。
自分だけが、未だに3分10円の昭和の世界にいるようである。(でもこうなったら意地でも、この世界に残って居ようじゃないかなんて心意気もある。)

車もそうだったし、そのうちパッと目が開いて携帯に釘付けになる日が来るかもしれないし、このまま一生携帯を使いこなせず、お墓に向うかもしれない。それはそれで自分の気持だから良いと思う。


ところで、1ヶ月近くkekeが自分の部屋に持って行ってしまったTVが先週、居間に戻ってきた。

TVが無い間、さぞかし不便であろうと自分でも想像したが、今日は何も変わらず、翌日も何も変わらず、その次の日になってもほぼ何も変わらなかった。

あえて言うと、その日の天気が分からなくなった事、それから真央チャンが優勝したシーンが見られなかったことだ。それから食事中に話題がなくなってちょっと気まずい事。(でもkekeはあまり気にして無い様子)

OROに「自分の知り合いがルーキーの誰それにそっくりなんだ」と言う話をされて、「最近テレビ見てないからお笑い芸人の名前分からないの」と言ったら「芸人じゃないよ」と言われた時、私この先ヤバイかもしれないと思って、kekeに「TV返してくれ」と言った。

そして、まもなくTVが戻ってきた。
明らかに変化が起こった。
TVがついていると、誘惑に負けて皿を片付ける時間が遅くなること。
席がなかなか立てなくなること。
この誘惑はチョコレートのように替え難いものであること。

ついているTVを消す、と言うのは踏ん切りがなければならないことを知った。
それはナチュラルとは相反する「フンッ!」と言う意気込みが必要であった。

文明利器と言うのは便利なのか不便なのか、分からなくなった。
私はちょっぴり、TVが無いこの前の生活が恋しくなった。

「無慈悲」な

2012-12-16 | 今の会社
検診の血液検査も異常ナシとなった。
あーうれしいなぁ、異常なし!

Aさんにその話をすると「次の検査は3月だ」と言い、「前は3ヶ月ごとの検査だったからまだ良かったけど、今は半年ごとだから、ちょっと胸が痛かったりすると心配になるんだよ」と言う。

「私は検診のたびにキンチョウします。だから行くけど苦手です。」と言うと、「いや、オレは受けた方がいいな。」と言う。

「行って何かみつかるのが怖いんです、会社もクビ・・ですよね?」
「そうだよ!」とAさんは言い、オレもクビになったんだからと言う。

あれはショックだった、給料ナシでもいいからせめて籍は残してほしかった、と言う話になって、「あの人は少し無慈悲な所がありますからね。」と私も言った。

そして今になると、半分は過去の笑い話になろうとしていた。


私はいつかこの人ともケンカ別れをすることにになるのだろうかと考えた。
その時は「無慈悲」な別れ方を宣告されるのだろうか、と考えた。

私は元夫や、あの時の社長を思い出した。

ちょっと昔だったら、私はそんな時こう考えた。
「どうせ私はその程度の人間だから、そうなっても仕方ない」
そう言う考え方をしていた。

でも、今はちょっと違う。
いつか、そう言う時が訪れても、「それはそれで事情があったのだろう」と考えたい。

「窮鼠ネコをかむ」
そうなってしまうこともあるのだろう。
私だってそう言う精神状況になることもあるかもしれない。
それは「悪い」のではなく、「弱かった」のではなかろうか。
このぐらいの年になったいい大人が、いたづらに人を傷つけようとするだろうか。

人を見定める能力を磨く必要はあるが、「この人は信頼できる人だ」「つきあっていきたい人だ」と感じたら、信じて行こう。何も恐れずに。

もしもこの先、どんな「無慈悲」な出来事が待っていても、それはどうしてもそうしなければならない事情があったのだろうと考えよう。
私がそこまで悪いわけではなく、相手がそれほど「悪い」訳でもなく、事情があったのだと。

それを「自分」と絡ませると落ち込んだり傷ついたりするかもしれない。
その事情は大抵、(過去を振り返っても)私よりその人個人の事情だったりしている。

「自分」と言う存在が、それべったりでないのなら、また歩き出せる。

sakeの歩窓から(ホーリーネオン)

2012-12-15 | 車の練習
最近「夜景モード」で写真を撮るのがマイブームです。^^

会社のデジカメが一つ余ってまして、私のカメラよりそっちの方が性能がいいのでは?!と思い、ちょっと拝借して夜景モードで撮ってみましたが、みんなピンボケになってしまいました。(+o+)
(三脚が無いとダメなのか。)

私のカメラの夜景モードもブレるのですが、カメラが古い分、たまにブレずに撮れるものもあります。
今日はそちらから。。。。

通りがかりでみつけたイルミ




自宅でできないので、見るだけで癒されます。(^o^)/
ありがとうございました。

コンビニでお昼

2012-12-14 | 今の会社
今日はお昼にコンビニに行った。

買ったのは、アメリカンドッグと肉まん。
アメリカンドッグなんて、どのぐらい久しぶりなんだろう!

いつもコンビニは大抵、おにぎりか肉まんだった。
それ以外のものはちょっと高い気がしてた。

アメリカンドッグを買って、私はワクワクした。
子供が駄菓子を買うみたいな新鮮な気持だった。

帰りに「わっ、これも幸せだ。」と気がついた。
昼に今食べたい物を、買って食べる。
それって、楽しいことだね。

いつもは昨夜の余り物と言うパターンが多いし、作っても焼きそばとかラーメンとか原価100円台のものばかり。

コンビニで買うものが一つだと、「これしかない」と言う物を選ぶしかないけれど、「二つ買っていいよ」と思うと、もう一つゆるく「これにしてみようかな」と言う物が選べる。
そのゆるさが、心を温かくしてくれるんだな。

今日は「これにしてみようかな」がアメリカンドッグだった。
ただそれだけなんだけど。


帰りながら、そんなどうでもいいことで「シアワセ」と言えちゃう自分を好きになることにした。
これも一つの才能だ、と思うことにした。

お金をいっぱい稼げる人の「才能」と同じように、ほんのちょっと使うだけで喜びを味わえるのも同じ「才能」なのだと思うことにした。

そう思うと、私は何も卑下することなく、堂々と闊歩できそうな気がした。
(見た目は何も変わっていないけれども。)


考えてみれば「選択肢」があることだけで、充分楽しいのだ。
お昼を選べること。
今日何の仕事をするかを選べること。
寝る時間、寝る前に読む本も。
みんな自由な選択肢。

そこに正しいも間違っているも無い。
後からそう思ってしまう自分がいるだけで。

自分を好きになると、過去への後悔がグッと減る。
「こんな私が選んだことだから、間違いが無いか、やがては間違いが無いことになるだろう。」と思うようになる。
そうすると、気持が穏やかになるのだ。
責めて来るものがいなくなるから。

オバアチャンの役目

2012-12-13 | 息子keke
事務所に戻ってきた秀クンと二人で仕事をしていて、「社長は?」と言うので「現場見てから帰る」って言ってましたよと言うと、「もう誰も戻って来そうにないね」と言うので、「そうですね。」と答えた。

「もう帰っていい?」と申し訳なさそうに秀クンは「カミさんから【頭が痛い(泣)】とメールが来たんだ。」と言う。

「夜も1時間半しか寝られない」と言うので、「昼間仕事で夜は赤ちゃんをあやしてるんですか?」と驚くと「寝てるとカミさんが怒るから」と言う。
私は昼間子育てしてるんだからと言うんだよ、と言う。

「母乳ですか?」
「本当はそうしたいんだけど、出ないから半々なんだよ。」

あー思いだすなぁ。
私は母乳だったんだけど、出してから「ちゃんとカラになるまで絞り器で絞りましょう」と言われて、やってしぼっていると、もう1時間半ぐらいになって、またkekeが泣きだしたものだった。
そして、朝から晩まで牛のように母乳を出していたような気がする、最初の頃は。

もう20年前の昔話は伝説のように遠くなってしまったけれど、やはり覚えているのよね、体のどこかで。

「2ヶ月ぐらいすると、もう少し夜まとまって寝るようになりますよ。そして、少し落ち着くと、また離乳食が始まるんですよね。」
「あぁ、食べるとか食べないとか大変なんだ。」
「それとか、清潔にしないとならなかったり。大人と同じものは食べられないし。」

そうそう、あの頃も泣きが出たなぁ。
レシピ通りに作ってもkekeは食べず、うまいのかまずいのか原因も分からず、朝になると両足にじんましんが出てしまったあの頃。。。

まだ元気だった両親が見るに見かねたのか、何と!「これを食べさせればいいんだよ」と大量のベビーフードを買ってきて、我が家にやってきたのだった。

あれはホントありがたかった。
大量のベビーフードもありがたかったけど、それより「これを食べさせればいいんだよ!」と言ってくれたこと。

育児本のレシピでは全然食べなかったkeke。
作り方が悪かったのか、何が悪かったのか分からず泣きが入った私。
「そんな完璧じゃなくてもいいんだよ」と言う悟り。
「生きてさえいればいいんだよ」と言うひらめき。

そして次にkekeのぜんそくがあり、離婚があり、その度に私の予定する完璧子育ては大幅に修正変更を余儀なくされて、今日ここまでやってきました。
ナミダ、ナミダを無くして語れない日々でした。


しかし、そんな事はおくびにも出さず「そうそう、でも最後はベビーフードなのよ」なんて今は、先輩風を吹かす私である。^^;
(ちょっと見栄張ってみた。)

そうなんだよなァ。
親になるまでに、いっぱい大きな関門があったのだった。
その度に、両親が、母が、来てくれて、助けられたのだった。

いつかkekeにもそんな日が来るかもしれない。
期待はしないけど、もしもそうなった時には、そして困った時には私も駆けつけよう。

そうなのだ。
困った時に遠慮なしに手を貸せるのが、オバアチャンの役目なのだ。(^O^)

遠く忘れかけた子育てを、秀クンの話で思いださせてもらったよ。ありがとう。
今日も一人戸締りして、事務所を後にする。

あれから1年

2012-12-12 | 息子keke
gooブログで書いている人はご存知だと思うが、毎日に近いような頻度で「1年前のあなたのブログ記事」みたいなものがメールアドレスに送られてくる。
そこには1年前のこの日に書いた内容が最初の3行ぐらい書かれていて、その先を読むにはリンクして当時のブログに飛ばなくてはならないのだ。

私はここずっと、その3行を読むだけで胸が痛くなる。
学校を辞めたkekeに、予備校に行けなかったkekeに、毎日どういうコトを言って、何を考えていたのだろうと思うと、苦しい気持になる。

当時は行くべき所に行く事が「正しい」ことだと思っていた。
頑張って耐えて「正しい」ことをしなければならないと思っていたのである。

そしてそれを放棄し1年経った今「平和」が訪れた。
kekeはバイトを始めて、私も仕事がある。
この先はどうなるか分からないけれど、今は外に出て働けるだけでありがたいし、それ以前に元気でいるだけでもありがたい。

その時出会った本に「いいことをメモに取ってありがとうとたくさん言うといいことが訪れます。日常の当たり前のことに感謝するのがポイントです。」と書いてあったので、最初は半信半疑で試してみた。
そしたら、会社の人もみんな笑顔が増え、社長に怒られる頻度も減ったような気がする。
なぜかバカにもされなくなった。

思えば今まで私は自分の損得ばかりを基準に行動していたような気がする。
どうしたら、自分が少ない投資で、より結果を得られるか。
効率ばかり考えていたのである。

しかし、周りの人に「ありがとう」と言われる度に何だかうれしくなって、さらにもうちょっとやってみよう、と思うようになった。
お茶も急須で入れるのが好きでない神経質な人には茶こしで入れてみたり、今年うちに仕事を頼んでくれたお客様にはその写真の年賀状にしてみたり、お年賀もちょっと時間を掛けて選んでみたり。
その時に「やりたくないことは無理にしない」ようにした。無理に頑張るとまた「わざわざ私がやってあげているのに!」と言う邪念が生じるからである。
あくまでもそれは善意であり、別に気がつかなくても良いもので、差し上げたつもりでちょっと自分の気分が良くなって、バイバイなのである。

仕事も効率は悪くなって時間も増えてしまったし、実際には誰も気づかないかもしれないけれど、なぜか自分の心の中がむくむくと温かいものが湧きあがってくるのであった。
一言で言うと、「生きがい」と言うニュアンスだった。

そうか、自分が得する事では無くて、誰かのためにすることでも楽しい気持ちになれるものなのか、と発見した。

そしたら、お金もたくさんは必要ではない。
毎日、今あるものを大切にして、ちょっと楽しみをみつけていく才能があれば、それだけで充分なのかも。。。


昨日は家に帰ってkekeに「夕飯どうしようか」と言うと、kekeは「昼に残りご飯は全部食べちゃった」と言い、「チカラメシが食べたい」と言う。
そうか、それじゃ買ってこよう!と言い、私は買いに出た。
もう8時近くになってて、とても今から料理を作る気になれなかったんだ、丁度良かった。

そして、kekeに焼き牛丼の大盛りと、自分は福神漬け抜きのカレーを買ってきた。
何でも無い、この一幕がとても楽しかった。

割と「どうでもいい」と言うkekeが「チカラメシが食べたい」と意思表示をしてきたのも嬉しかったし、それで意気投合、何だかつながってるよなァと私は思った。

明日は何か作ろうとおでんの材料を買って、牛丼屋に寄って帰る。
出来る日はすればいいし、何となくする気になれない日はしなくていい。
この自由さ加減が、とてもいい。

本当に最近楽しいよ。

予備校に払った何十万の金は、今の自分の授業料だと思うことにしよう。
大きくは変わって無くても、楽しくいられるんだから。