東京大学史料編纂所主催セミナー 「加藤清正文書研究の最前線」が開催されます。
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苓北町とは天草本島の最北端にある町だが、大合併にソッポを向いて一人我が道を歩んでいる。その故は火力発電所を立地しているためである。
この町にかって富岡城があった。天草島原の乱の発端ともなったところである。天草五人衆が加藤・小西連合軍の元に降伏したのち、天草は寺沢広高の統治する処と成り、富岡には番代として三宅藤兵衛が入った。しかしながら天草の乱に於いて戦死をすることに成る。
そんな藤兵衛について苓北町史は次のように記している。
三宅藤兵衛は明智光秀の外孫という。『源姓三宅氏中興家伝』によると光秀の姉の子に光慶(始弥平治、後左馬助)なる者がいたが、彼は光秀の娘を妻にして一子をもうけた。その子が後の三宅藤兵衛だという。本能寺の変の時わずか二歳の幼児であったが、彼の母は乳母に黄金五十両をそえてのがれさせた。彼は鞍馬寺にあずけられ後家臣の三宅六郎大夫に育てられたため、その姓を称することになった。幼名を師後・後与平次、俗名を重利と言った。
細川忠興室ガラシャ夫人は叔母にあたるため、一時丹後に招かれてその恩顧をうけたが、光慶の家臣守田作兵衛が寺沢広高に仕えていたので、そのつてによって広高に仕え三千五百石を授けられた。元和七年(1621)から天草の富岡番代になった。彼には長男藤右衛門(重元)、次男徳助(重信・吉田家を継ぐ)、三男加右衛門(重豊)、、四男新兵衛(重行)の四子があったが徳助を除いた三人はともにこの乱に参加した。乱後、藤右衛門と新兵衛は再び父祖の縁によって細川家に仕えた。
乱に当たって三角の河喜多九大夫が「三宅藤兵衛殿は殿様(忠利)とは、御のがれ成らざれる御間・隠れなき儀に御座候」(綿考輯録)と言っているのは、前述のよう事情をさして言ったものであろう。
この稿の担当は花岡興輝先生であろうと思われる。
http://ameblo.jp/tokyo-kumamoto-kenjinkai/entry-11582836736.html
http://prw.kyodonews.jp/opn/release/201308013665/
:8月28日(水) 18時から20時20分
場 所:豊島公会堂(東京都豊島区東池袋1-19-1)
申 込:入場には、ちらし裏面(下記画像)の整理券が必要です。 (先着800名様)
問合せ:東京熊本県人会事務局(道倉)090-6565-0482
◆宮本武蔵研究論文集(上)(下)の著者・福田正秀氏も出演され、「終焉の地・熊本からたどる宮本武蔵の実像」を講演されます。