どこにもテレビ仕立てにしたらいいような話がある。肥後細川に於ても、藩主宣紀の寵愛を良いことに専権を極めた用人がいた。(ご子孫が居られるので名を伏せる)
御小姓頭平野某、また江戸家老木村某は抗議の意をもって職を辞し、御物頭本庄角兵衛(喜助)は組下救済の道に窮して切腹自栽した。書置きを認めたが握りつぶされ乱心とさた。享保十二年のことである。
この角兵衛こそが、赤穂義士間瀬久太夫の切腹にあたり、介錯を勤めた本庄喜助でる。先祖本庄喜助は忠利に殉死。嫡男は別禄を拝領していたため、跡式は二男熊介が継いだ。この熊介は後熊本を離れ黒田家に仕え、宮本武蔵の二天一流の後継者として名をはせた柴任三左衛門である。本庄角兵衛は初名柴任喜助、元禄三年二百石を領し、御馬廻組より御小姓組となる。本庄氏に復す。
元禄十六年二月赤穂義士の切腹にあたり介錯役を務め(29歳)、宝永五年御小姓組脇、正徳五年歩小姓頭、享保五年御弓二十挺頭、同九年御鉄炮二十挺頭となった。
華やかな元禄の頃に比べると、細川の財政は破綻して藩士は困窮を極めたという。そんな時におきた不幸な事件、赤穂義士切腹から24年後のことである。
ご子孫本庄家は忠利殉死の初代喜助とともに、この角兵衛(喜助)を名誉の人としておられる。
御小姓頭平野某、また江戸家老木村某は抗議の意をもって職を辞し、御物頭本庄角兵衛(喜助)は組下救済の道に窮して切腹自栽した。書置きを認めたが握りつぶされ乱心とさた。享保十二年のことである。
この角兵衛こそが、赤穂義士間瀬久太夫の切腹にあたり、介錯を勤めた本庄喜助でる。先祖本庄喜助は忠利に殉死。嫡男は別禄を拝領していたため、跡式は二男熊介が継いだ。この熊介は後熊本を離れ黒田家に仕え、宮本武蔵の二天一流の後継者として名をはせた柴任三左衛門である。本庄角兵衛は初名柴任喜助、元禄三年二百石を領し、御馬廻組より御小姓組となる。本庄氏に復す。
元禄十六年二月赤穂義士の切腹にあたり介錯役を務め(29歳)、宝永五年御小姓組脇、正徳五年歩小姓頭、享保五年御弓二十挺頭、同九年御鉄炮二十挺頭となった。
華やかな元禄の頃に比べると、細川の財政は破綻して藩士は困窮を極めたという。そんな時におきた不幸な事件、赤穂義士切腹から24年後のことである。
ご子孫本庄家は忠利殉死の初代喜助とともに、この角兵衛(喜助)を名誉の人としておられる。