津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・40

2009-02-01 08:19:59 | 歴史
先陳後軍の諸大将思ひ/\に攻よせ、詰の丸の先登ハ黒田家也、其の外国々の使者・台使・鑑軍の御内・諸浪人迄我劣らしと働き、各分捕高名有、林丹波殿に被付置たる松山権兵衛はやく本丸に入て、諸手の士卒諸方より攻入るを見に、有馬手の内より朝比奈源左衛門諸人を踏越勢力を励し攀上る、松山驚き朝比奈は元日の城攻に深手負倒れしかハ程なく死ぬらんと思ひしに、今日の勇壮希代の強兵なりしと感し、如何に朝比奈の幽霊、松山権兵衛見知たるかと大音ニ呼り、佚(たがい)に詞をかハし相笑ひて勇ミ進み賊を討取る、松平甚三郎殿も城中に入て下知せられ、被付置たる歩御小姓菅屋作大夫粉骨して敵を討、伊豆殿家士木村庄右衛門ハ早朝に城中に入、当手の上条角大夫と一所に働く、大江口にて小笠原右近殿の射手足軽大将白石市右衛門と当家の大竹与三左衛門壱所に相挊、互に証拠とす、榊原飛騨守殿の手に附きたる浪人成田十左衛門重勝昨今共に働有■■、諸手こと/\く本丸に乗入込合候間、鑓の柄を切折働も有、味方の鑓刀に中り同士討せし手も有之と也、福田次郎右衛門ハ一揆を討取、疵を被り候故、古塚の上ニ腰をかけ休ミ居けるを、黒田家の番差物したる武者五六人鑓を以突かゝる間、是ハ細川手之者也、手負を目懸味方討する比興者と詞を懸候へ共、物をいはするなといふて弐三人進ミ行く、福田もせんかたなく鑓取て立向ふに、残る者共彼等を制し脇に立退、難を免かれ候と也

天草四郎の最後
陳佐左衛門走廻り首二ッ討取候か、四郎か居宅の焼落る比煙下をくゝり其屋の内にかけ入る、佐渡か軽卒三宅半右衛門もつゝいて入に、創を被りたる者かと見へ、絹引かつき臥居ける側に女壱人付添泣居たり、佐左衛門つと入足音に驚き、かつきたる絹を押除る所を透かさす一刀に斬て首提け走出る、女驚き引留んとするを、三宅是を切捨にして走出ると忽棟を焼落し候、寺本久太郎ハ先時夜明ると早速忠利君の御意を蒙り、今日討取所の首をも拾せ、本陳前の堀に集め候に夥しく有之候、佐左衛門も其所に至るへきと思ひ、右の首を提、忠利君の御目通り近くを行くを急き行を屹と御覧被成、其首見所有、大将四郎なるへし、念を入候へ、扨々冥加の者哉と御意候か、果して四郎首也、御近習の輩驚き奉感候、扨佐左衛門惣首の所に至始終を語候へハ、久太郎猶も委しく様子を尋ね聞、陳か高名を感し候

扨て諸国の人数入乱て一揆を討、かくれ居たる男女老若を不撰見当を幸に斬て廻る、或はひろひ集め候間、思之外に首数多き手も有之候と也、当家の首数三千六百三十二、中ニも四郎首ハよく洗ひ髪を結、上使の実検に被備候、諸手よりも四郎首とて札を付たるか数多有之候と也

同日、軍を納て後、興長ハ賊徒平均を賀し奉し為上使の御陳屋に至けるに、折節両所会談の席なり、賀儀竟て伊豆殿被仰候ハ、今般陳中の大小事に心労有し功によりて、昨日其手より本城海手を乗破、其方の円居諸手一番に入たる事比類なき武功、日来の覚悟現れ雄々しき手柄之段、太守も御喜悦なるへしと察し入候と被仰候間、佐渡拝伏し、誠に農民とハ申なから城郭をかまへて矢石を発し、味方にも死傷多く其狼藉を仕候二、偏に御威光を以即時に平定し、越中守か寸志相達、尊覧の如く当手より本城を攻取、大将四郎か首を討果、上下快悦之至二候と申けれハ、両所尤と有、時ニ左門殿被仰候ハ、肥後勢本丸先登之事ハ我々親り見分いたし候、然に立花飛騨守内十時三弥来て、本丸一番乗立花家に在と云、又水野家の士卒先魁すとも云、其外有馬・寺沢の手につきたる諸浪人何も一番乗せしと告来る、細川手の人数其体を見たる者あるへし、委く吟味を遂、重て是を相達せらるへしとあり、佐渡申候ハ、仰の如く十時を初め其余の士卒先登を争ひ申事、心掛奇特之至余儀なく覚候、然共彼等に不限若干の諸浪人・心繰の諸士卒何れも当手の大軍を頼ミ屏下に近付、疵を蒙首を取の類、いまた其数を不知、御両殿御直ニ御覧之通、蓮池の頭より東ハ海手の隅まて越中守軍勢透間なく押詰、終に本城に攻込候へハ、当手の中にも一二を争ひ勝劣を論していまた決し不申、況や他家の輩二百三百当手の跡に屈し、威を借て乗入者ハ皆越中守か軍卒也、■(鎖)細の争論用ゆるに不足存候と答けれハ、御両所一笑有、是誠ニ大器の論也と被仰候、伊豆守殿重而今度越中守殿惣大将たりし験有て、俄の城攻に取あひ、即刻三の郭に先登、直に二の丸に附入、即晩本城をも一手を以乗入、旌旗を建、火を放て焼払ひ、殊更大将四郎を討取る条、残る所なく他に異なる軍功早速江府にも言上せし所也、随て其方父子粉骨の働感入候と被仰候間、佐渡守面目を施し退出す、此時返答之申様ニよりてハ猶又吟味も隙取へきに、よく申達ける故早速埒明たり、本丸を乗取手柄も同前と各感心いたし候と也
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島原の陣--決戦の日・・39

2009-02-01 08:18:11 | 歴史
氏家志摩・斎藤勘左衛門等はやくしまりの屏下に着相働く所に、有吉家士木部清大夫きのふの深手くるします、組の射手をすゝめ先を払て同所に来るに、鉄炮にて鑓の柄を打折、直にその僕に中て死す、同戸田十之允賊と突合鑓打落され候処、直ニ踏込抜打に其敵を仕留候を、藤掛伊織同所に働て見届候、同武藤十左衛門・荻野兵助等鑓を討取、原田三大夫もよく働て賊を討、葛西惣右衛門先にすゝむに、松の木の下にて賊徒一同に突て出しかハ、先徒少崩けるを見て葛西横合に鑓を入、敵二人を突伏首を取る、鑓手少々被り候、団六左衛門も鑓を入、敵を討取る、葛西伊織も壱人突伏首を取所に、余賊左の方より近々と寄、鉄炮打かけ候か、冑の立物共に打崩させ候へ共、幸にして疵を不得、急に追詰其敵を突伏首を取、見るもの甚賞美せしと也、其後所々馳廻り又二三人突捨る、岡田作之允 作左衛門嫡子 敵を突伏首を取時、石にて頭を打れなから又鑓を合けるに、敵鑓を投突にして作之允か足を突ぬき逃入る、疵深く痛、追討成難く本営に還る、本郷縫殿助貴延も鑓を合、首を取、岡沢兵左衛門為行もよく働て首を取、弟岡崎次郎右衛門清次も敵を討取、其後も岡崎は数度鑓を合せ突捨て働き候

米田与七郎家人姫嶋清大夫・毛利藤兵衛・同手に属せし浪人泉田五郎兵衛・野中文八四人一所二打出しに、四郎か宅の焼ゆ余焔近所の家に移、夥しく燃上り、すゝミ通るへき様なく猶予しける所に、焼家の下より賊十余被と一列に突いてかゝる、彼等四人鑓を合、各一人つゝ討取、泉田五郎兵衛ハ投突の鑓を喉に受て終に死す、其時腹巻はかりニ突留る、家人木村与三兵衛・同四郎左衛門・井手藤右衛門・塩木半之允・岡田権兵衛等もよく働く、右の外にも松井・有吉・米田か士卒いつれも能力戦いたし候
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