津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

7 木挽町御屋敷

2009-02-24 20:01:29 | 歴史
 木挽町の名は、江戸城修復にあたり木挽き職人が多く住んだ事に由来するという。
現在の歌舞伎座あたりだとするが、細川家屋敷を確認する事は出来ない。
「細川家御旧記・古文書分類目録」を見ると、木挽町御屋敷に関する文書が次のようにある。
   74、木挽町御屋敷図
   75、木挽町御屋敷絵図
   76、相定書1通 神雑1,4,1 文政13年3月25日 木挽町御屋敷譲渡についての規定書
   77、木挽町御屋敷松平和泉守様江御譲二相定候規定書 1通 神雑1,49 万延2年2月
これにより、木挽町御屋敷は万延二年松平伊豆守に譲渡された事が判る。
改めて、「7 京橋南築地鉄炮洲絵図」をみると、確かに松平伊豆守の屋敷が確認される。ここが「旧・細川家木挽町御屋敷」である事が判明した。
銀座三丁目、現歌舞伎座の北あたりか・・  「これにて一件落着」
歌舞伎座の場所そのものであることが判明 2/26追記
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切絵図を見る

2009-02-24 18:06:49 | 書籍・読書
【切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩
                 発行:人文社 値段:2,400円+税

古地図で楽しむ鬼平・忠臣蔵の世界。 御曲輪内大名小路絵図-現代図(皇居・東京駅周辺)麹町永田町外桜田絵図-現代図(日枝神社・日比谷駅周辺)東都番町大絵図(現代図(靖国神社・市ケ谷駅周辺)現代図(イギリス大使館・四ツ谷駅周辺))飯田町駿河台小川町絵図(現代図(神田古書店街・御茶ノ水駅周辺)現代図(水道橋駅・飯田橋駅周辺))日本橋北内神田両国浜町明細絵図-現代図(明治座・日本橋駅周辺)八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図-現代図(京橋駅・八丁堀駅周辺)京橋南築地鉄炮洲絵図-現代図(築地本願寺・銀座駅周辺)芝口南西久保愛宕下之図-現

  高橋英樹さんではないですが、これを持ってぶらぶら散策するといいだろうなー、と思うのですが・・・
  時間と金と体力が必要ですね


           map.goo.ne.jp/history
東京の地図を江戸時代、現在、昭和に分けて表示。昭和初期の航空写真、江戸時代から続く老舗店舗の紹介も。 ... 江戸の古地図を眺めて現代の東京と見比べてみませんか?35エリアの縮尺変更やスクロールが可能な江戸切絵図を眺めることが出来ます。(サイトの案内コメント)
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切絵図に見る細川藩江戸藩邸--つづき

2009-02-24 17:35:25 | 歴史
 熊本大学のHPに「貴重資料」というのがある。  www.lib.kumamoto-u.ac.jp/rare
 この中の「貴重資料展」から「平成12年度 第17回 永青文庫による細川家(藩)の大名屋敷 」を御覧いただくと、「龍口御屋敷」「芝御屋敷」「戸越御屋敷」や、熊本の藩主邸「御花畑」、「水前寺元御茶屋」(現・水前寺成趣園=水前寺公園)の図面を見ることができる。

 切絵図に於いては、「戸越御屋敷」や「芝御屋敷」は確認できず、「貴重資料」はまさに貴重資料である。その他切絵図で確認できる事柄をご紹介しておこう。
  2 麹町永田町外桜田絵圖
      桜田御門の前に凶変で倒れた井伊直弼の屋敷「井伊掃部頭屋敷」がある。
      そのすぐ裏に宇土細川家の屋敷がある「細川山城守」とあるから、細川立則であろうか。
      上屋敷である。国会議事堂敷地に取り込まれているのか・・
  5 日本橋北内神田両国浜町明細絵図
      重複するが谷田部藩屋敷「細川長門守」が見える
  7 京橋南築地鉄炮洲絵図
      罪人の寄場石川島を目の前にした所に、細川新田藩「細川若狭守」の上屋敷がある。
      鉄炮洲細川家と呼ばれる所以である。佃大橋の根本である。
  8 芝口南西久保愛宕下之圖
      ここには宇土細川家中屋敷「細川豊前守(行眞カ)」が見える。
      愛宕山に近く、現・西新橋二丁目か・・細川忠興が住んだという愛宕屋敷の跡ではない
      かと推測するのだが、如何?
  18 本所絵圖
      ここには新田藩の二つの下屋敷(細川若狭守)と、谷田部藩の下屋敷(細川玄蕃)が見える。
     ・新田藩の一つは隅田川に掛かる吾妻橋(当時もあった)の突き当たり、今一つは両国回向院
      の近所である。時代は違うが吉良上野介の屋敷跡も近い。両国駅のすぐ南である。
     ・谷田部藩の屋敷は現在の墨田区亀沢二丁目あたりか・・
  19-1,19-2 本所深川絵図
      ここには本藩深川御屋敷と共に、新田藩(細川若狭守)下屋敷が見える。
      江東区森下一丁目辺りか・・
  20 芝三田二本榎・高輪邊繪圖
      宇土藩(細川山城守)屋敷が見えるが 22 の同屋敷である。またこの絵図の上部右端の 
      白地の部分が細川家白金屋敷(本邸)である。
      ここには細川家の菩提寺東海寺の広大な墓域が記されている。妙解院の位置もよく分かる。
      桜の名所・御殿山のすぐ隣である。
  22 目黒白金図
      ご存知の方はご教示いただきたいのだが、○○屋敷と呼ぶのだろうか。
      本藩(細川越中守)と、宇土藩(細川山城守)の下屋敷が記されている。
      前者は目黒雅叙園となり、行人坂が屋敷脇にあった。
        行人坂    www005.upp.so-net.ne.jp/shin1ro/onihei/oni_doc/sakareps_3.html
      後者は白金台二丁目現在は畠山記念館となっている。
        畠山記念館 www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/index.html

      絵図の最下部に白金の中屋敷が見える。
コメント (4)
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切絵図に見る細川藩江戸藩邸

2009-02-24 14:44:56 | 歴史
 人文社が発行している、【切絵図・現代図で歩く「江戸東京散歩」】は中々秀逸な本で、これで江戸藩邸のいくつかを発見した。この本は、俳優の高橋英樹氏がいつも手にもって江戸散策をやっておられるらしい。

     1、戸越御屋敷   www.eurus.dti.ne.jp/~toshibo/togoshikouen01.htm
     2、龍口御屋敷    1 による 
     3、白金御屋敷    20 による 
     4、田町御屋敷       同上
     5、浜町御屋敷    5 による www.geocities.jp/tokyo_saunterer/a030500.htm 
                         www.dentan.jp/ningyou/suiten3.html
     6、矢之蔵御屋敷
     7、木挽町御屋敷
     8、目白台御屋敷   26 による
               city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_kouen_annai_kuritukouen_kouen_shined...
     9、八丁堀御屋敷   6 による
     10、神田御屋敷
     11、深川佐賀町御屋敷 19 による
     12、外山御屋敷
     13、芝御屋敷
     14、永嶺御屋敷
     15、大崎御屋敷  2/26追記
     ● 椋木阪下定府御長屋

 これだけの藩邸及び定府御長屋があったのは驚きだったが、これら全てが切絵図で確認できる訳ではない。
  1 御曲輪内大名小路繪圖
      ここにはいわゆる龍口邸(2)と呼ばれる細川家上屋敷が描かれている。
      江戸城正面(有楽町-丸の内-大手町)界隈であるが、和田倉門前の一等地で
      ある。現在の丸の内オアゾが其の位置である。
      数度の火事にあい立て替えられているが、土地が狭い為実質の本邸は白金御
      屋敷であったとされる。
  5 日本橋北内神田両国浜町明細絵図
      自らを「浜町さま」と呼ぶようにとした斉茲であるが、その名前の由来となったのが
      浜町御屋敷(5)である。日本橋浜町二丁目・浜町公園あたりであろう。
      この絵図には谷田部藩・細川長門守の屋敷も見られる。東神田一丁目から日本橋
      馬喰町にかけての位置だが、靖国通りの道になったか・・?
  6 八町堀霊岸嶋日本橋南之絵圖
      八丁堀屋敷(9)は現在の日本橋兜町あたり、新場橋(当時もあった)を渡った突き
      当たりにあった。文久三年の絵図とあるから韶邦等が住まいしたのであろう。
      慶應年間久世出雲守に譲渡されたか。現・中央区立阪本小学校の敷地である。
  19 本所深川絵圖
      深川佐賀町御屋敷(11)が木場公園東側にある。当時西側に木置場が広大に
      広がっておりそこに流れ込む横十間川をまたぐように屋敷は位置している。      
      不二見橋は当時から絵図に見える、格好の目標である。
      中村嘉一郎の日記に見える「下総石小田屋敷」がこれであろう。
      この絵図の中には細川新田藩「細川若狭守」の屋敷が認められる。
  20 芝三田二本榎高輪辺絵図
      ここに本邸ともいえる白金御屋敷(3)が見える。龍口御屋敷を御成御殿にすべく
      計画がなされたが、敷地が狭い為これを断念白金御屋敷が整備され後本邸とし
      て機能した。赤穂浪士が切腹したのはこの屋敷内である。
      この絵図には現在の泉岳寺駅・三田駅の中間あたり(たまち)に小さな屋敷が記
      されている。これが田町御屋敷(4)であろうと思われる。
  26 雑司ヶ谷音羽絵図
      ここに記されている「細川越中守・抱ヤシキ」が、現在永青文庫がある目白台御
      屋敷である。絵図にも二本の大きな松ノ木が描かれているが、町名・老松町の名
      の由来となった松である。現・新江戸川公園。
  
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