「島原の陣--決戦の日」は42回に達し、ようやく先が見えてきた。あと1・2回で終了としたいと思っている。いささか疲れたが、一字一句をタイピングする事で、理解が深まったことを嬉しく思っている。それにしても悲惨な戦ではある。諸士の活躍振りや、最後の有り様など生々しく、タイピングの手が幾たびか止まりさえした。綿考輯録は死者・手負など詳細に名前を記載しているが、いつの日かこれもご紹介し様と思う。しかし人数が夥しく、何時の日になるかは保証の限りではない。
寛永十五年二月廿九日、三浦志摩守殿有馬を立て江戸ニ御帰候間、酒井讃岐守殿・堀田加賀守殿江被遣候御書
志摩守殿御上候間申入候、今度俄ニ城乗御座候処、首尾好御座候而本丸迄乗取隙を明
申候、本丸なとハ石垣ニ而一度ニ済可申所ニ而御座候様何も申候キ、先以目出度存候、
一両日落人尋方々山狩なと御座候ハん間、頓而在所江罷帰候ハん間、肥後事も頓而帰
国仕、少シ足をやすめ江戸へ進上可申候、今度城乗之次第鍋嶋出丸明退候故、仕寄を
付候へとの御事ニて御座候つる、其時鍋嶋は出丸へ仕寄虎口より着申所二之丸------
(虫クイ)人参候故、城中さハき申候間、扨は乗と見申故三丸からも乗込申候間、敵もうろた
へ申候間切捨二仕、二丸へ乗込せ申し候内ニ、鍋嶋手よりも三丸二丸ニ乗込、二丸ニ火
を付申候所ニ、我々人数ハ二丸へ入申候而、二之丸より本丸江取込申候、人数ニ付本丸
海手角から中程迄我々人数つき申候、石垣と申手負死人多御座候間、引取可申と存候へ
とも引申事も成不申、二時あまり城屏きわへ付而居申内、はや日暮にかゝり申候間無是
非無理ニのりこませ申候、我等人数本丸をやき申候事はや日暮申候つる、乗ハこミ申候
へとも火を付申候故、のり口ニさくをつけこたへ申内ニ、夜更夜明よりはし/\人数入申
つる、二ノ丸は鍋嶋はやく乗込申候、三之丸は立花・我等人数計ニてのりこミ申候、討捨
之首数なと跡より可申入候、具ニは三郎左衛門我々手ニ被居候間、此段可被申上候、恐
惶謹言
細越中守
二月廿九日 忠利
酒讃岐守様
堀加賀守様
人々御中
猶々、四郎にけ可申かと存候処、本丸ニ而我々者首を取いなせ不申満足仕候、此状之
内御心得候而、掃部殿・大炊殿江御申候て可被下候、廿七日八ッ時より乗込、其夜直ニ
せめ口ニて夜を明シ申候、本丸之後又下之小丸に何も手間を入取候て、廿八日九ッ時分
ニ相済、人数打入申候、未はし/\すミ/\人残申候由候、右衛門佐殿・鍋嶋殿人数を
残被置帰申候、以上
志摩守殿御上候間申入候、今度俄ニ城乗御座候処、首尾好御座候而本丸迄乗取隙を明
申候、本丸なとハ石垣ニ而一度ニ済可申所ニ而御座候様何も申候キ、先以目出度存候、
一両日落人尋方々山狩なと御座候ハん間、頓而在所江罷帰候ハん間、肥後事も頓而帰
国仕、少シ足をやすめ江戸へ進上可申候、今度城乗之次第鍋嶋出丸明退候故、仕寄を
付候へとの御事ニて御座候つる、其時鍋嶋は出丸へ仕寄虎口より着申所二之丸------
(虫クイ)人参候故、城中さハき申候間、扨は乗と見申故三丸からも乗込申候間、敵もうろた
へ申候間切捨二仕、二丸へ乗込せ申し候内ニ、鍋嶋手よりも三丸二丸ニ乗込、二丸ニ火
を付申候所ニ、我々人数ハ二丸へ入申候而、二之丸より本丸江取込申候、人数ニ付本丸
海手角から中程迄我々人数つき申候、石垣と申手負死人多御座候間、引取可申と存候へ
とも引申事も成不申、二時あまり城屏きわへ付而居申内、はや日暮にかゝり申候間無是
非無理ニのりこませ申候、我等人数本丸をやき申候事はや日暮申候つる、乗ハこミ申候
へとも火を付申候故、のり口ニさくをつけこたへ申内ニ、夜更夜明よりはし/\人数入申
つる、二ノ丸は鍋嶋はやく乗込申候、三之丸は立花・我等人数計ニてのりこミ申候、討捨
之首数なと跡より可申入候、具ニは三郎左衛門我々手ニ被居候間、此段可被申上候、恐
惶謹言
細越中守
二月廿九日 忠利
酒讃岐守様
堀加賀守様
人々御中
猶々、四郎にけ可申かと存候処、本丸ニ而我々者首を取いなせ不申満足仕候、此状之
内御心得候而、掃部殿・大炊殿江御申候て可被下候、廿七日八ッ時より乗込、其夜直ニ
せめ口ニて夜を明シ申候、本丸之後又下之小丸に何も手間を入取候て、廿八日九ッ時分
ニ相済、人数打入申候、未はし/\すミ/\人残申候由候、右衛門佐殿・鍋嶋殿人数を
残被置帰申候、以上