細川家家臣・平野氏について問い合わせをいただき、いろいろ調べている内に過去のブログ
■ 2008年12月11日 肥後入国「熊本御城の要害其外委細申上候と也」
■ 2008年08月01日 細川家家臣・横井氏 & 平野氏
に書いた内容に自信がなくなってしまった。次の二点を特に精査する。
1、略系図
2、清原(舟橋)家から養子に入ったとされる長治は果たして誰の子なのか。
五郎左衛門
+---長時---源太左衛門---+--仙右衛門
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| +--弥五右衛門
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| +--茂兵衛・・・・・・・・・→五郎家
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| 甚左衛門 九郎右衛門 九郎右衛門
+---長景-----長之--------+--長是・・・・・・・・・・→九郎太郎家
| | 庄大夫
| +--長直・・・・・・・・・・→七角家
万久入道 大炊頭(介)|
賢長===長治---+---長泰---長勝・・・・・・・・・・・・・交代寄合衆・明治に入り田原本藩主
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+---長重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・旗本
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| 弥次右衛門 茂左衛門 知行召上
+---長知---+--長秀---三郎兵衛・・・・・・・・・・・・・→弥平家
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+--弥平太 島原の乱討死
| 元右衛門
+--元弥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→甚兵衛家
清原宣賢---+--業賢---+--枝賢
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| +--長治
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+----女
|-------細川藤孝
三渕晴員
【平野源太左衛門】
■平遠江(平野長泰)より、肥後に居申候おい(平野源太左衛門)、我等ニ抱候様にと被申候間、肥後殿構無之候ハヽ、抱可申由約束仕候、此儀にて言上仕候キ、肥後殿構ふかく御座候而、同心不参候故、おいの儀は成間敷と被存、其子両人御座候を、我等ニ抱させ申度由被申越候へ共、宗立(三齋)様へ御かためを、申上候間、成不申由申候へハ、又 宗立様へ被申上之由承候、肥後殿事之外構ふかく被申候間、其子抱候ハヽ、肥州満足ニハ御座有間敷かと存候間、何とそ御分別を以、遠州へ被仰遣候様ニと、可被申上候事
元和七年八月廿八日書状案 (大日本近世史料・細川家史料 8-51)
■加藤清正に仕へたりし平野源太左衛門長九と云者を、肥後案内として豊前ニ被召寄、御知行千石被下御鉄炮三拾挺御預ヶ被成、嫡子平野弥五右衛門ニ三百石被下、親之添頭被仰付候、熊本御城の要害其外委細源太左衛門申上候と也
(綿考輯録巻三十三 忠利公・上p286)
【九郎右衛門・長之】父と共に大阪に籠城し、後洛外に居住、元和八年豊前召寄せられ、知行五百石組外に差し置き。忠利代元和八年八月、三百石加増、小姓頭。其の後大目付。寛永元年八月、百五十石加増。島原乱の時光尚に近侍、武功吟味役。
大日本近世史料・細川家史料--人名索引から
○ 平野長泰 初め長勝。権平。豊臣秀吉に仕ヘ、文禄四年大和田原本にて五千石。慶長三年従五位下遠江守。慶長五年徳川家康に従ふ。寛永五年五月七日歿。年七〇。
ja.wikipedia.org/wiki/平野長泰
○ 平野長勝 権平 寛永五年相続(大和田原本五千石)。寛文八年従二月九日歿。年六六。
○ 平野長重 九左衛門。長泰弟 幕府旗本、五百石。はじめ織田信忠、ついで豊臣秀吉に仕う。天正十一年二百石。関原戦には福島正則に属して戦功あり。同年三百石加増。大坂の陣に出陣。のち致仕し、慶安三年七月八日歿。年九一。
● 平野源太左衛門 細川家臣。加藤清正家臣平野五郎左衛門長時の男。源太左衛門は加藤家を構はれ、牢人中を忠利に召出される。知行千石。鉄炮三拾挺頭を勤む。
● 平野仙右衛門 細川家臣。高祖父平野大炊助は尾張に生れ、加藤清正に仕う。祖父源太左衛門のとき加藤家を牢人、京都に在住。豊前にて忠利に召出され、鉄炮頭、知行千石。仙右衛門は源太左衛門嫡子。部屋住の内知行二百石。萬治元年跡目相續して七百石。馬廻組。延寶三年隠居
ウィキペディア・武家家伝から
※ 平野大炊介長治 ウィキペディアでは舟橋宣賢の孫とし、武家家伝では「長治は舟橋枝賢の実子で、堀田正貞の女を妻とした。津島に住し、信長・秀吉に仕え、天正十年(1582)には播磨国姫路城の留守居役を命じられている。」とするなど、食い違いが見える。
追記:ぴえーるさんのご教示により、業賢の子とするのが妥当であろう。これについては2/23ブログを参照されたし。