廿八日之晩、伊豆守殿営室にハ戸田氏を初馬場・榊原・林・牧野氏等会合して諸手の軍功を論談有、三郎左衛門殿申候ハ、昨日午の刻はかり鍋嶋手より出丸に取かけ攻入を見て、細川越州の先手三の丸ニ乗入る、扨二の丸にハ榊原飛州父子先登二而下々早く入て火を付る、相続て鍋嶋攻入候へハ、二の丸ヘハ誰々と申ても鍋嶋先手より早く入たる者は有ましく候、はやく火を付候故奥へ攻入事不成と見へたる内に、細川・立花の両手海手より二丸に乗入、火を放、郭中の家十ヲ十五共焼ざる先に細川人数かけ抜、二の丸の奥本丸の下に着たる事ハ榊原飛州よく御覧之通也、其後肥後人数一時余りも犬走に在て相戦ひ、終に東の隅より本丸に乗込火を放て焼立るを、拙者横目として始終をよく/\見分、伊豆守殿・左門殿も後より御覧有かと存候、尤諸手の士卒・諸浪人も少々交りたると見及候、二の丸ハ七ッ時前に焼終り、本丸ハ酉の上刻に焼上る、右之段々ハ御代官衆を始歴々の見分ニ而紛なき事にハ候へ共、若相違候ハゝ、各唯今仰談られ候へかしと有けれハ、諸御目付いつれも尤と被申候、其後黒田氏其手を吟味有、上使の陣屋に至、本丸の一番乗は拙者家来也、四郎か家をも焼払はせ候と有、伊豆守殿それハ何時にて候やと尋らる、廿八日四ッ時と有、左候へは御了簡違にて候、廿七日細川手本丸に乗入火をかけ、四郎家焼る有無の事も不相知、廿八日の卯の刻に四郎家夜前焼残候を、唯今火矢にて焼せ候、見候へとの案内にて我等見候内ニやけ、其家ニ而紛なく四郎か首を細川手へ取候、煙下にて御覧し違有て、廿八日四ッ時を一番乗と思召候事尤余儀なく存候と仰けれハ、黒田氏何かと可被仰気色を見て、彼手の検使丹波守殿引取挨拶し同道にて本営に帰られ、翌日黒田氏より使者を以、昨日被仰聞候趣承り届候と伊豆守殿江被仰入候と也
廿八日監物ニ被下候御書并堀江勘兵衛より監物と御奉行江之奉書、外ニ口上書壱通、佐渡守より監物江之返状、廿九日監物より之御請状、共ニ合五通
■ 御端書御自筆
此方之仕合可心安候、以上
先度此方へ越候四郎母・大矢野の小左衛門・同四
郎兄弟先度越候分急不残越可申候、爰元廿七日ニ
三ノ丸・二ノ丸・本丸一日ニのり取候、可心安候、
二月廿八日 越 御判
又申候、小左衛門下人共不残可越候 已上
長岡監物殿
■ 為 御意申入候、今度貴理師旦御改之儀ニ付、宇
土・益城・八代之御惣庄や・小庄やなと之人しち
もはや可被指返之旨被 仰出候、一刻も急御返候
へとの儀ニ御座候間、其御心得可被成候、郡筒も
早々差返候へと被 仰出候間、明日郡々江之舟申
付直遣申候間、其御心得可被成候、 御帰陳未何
時分共不極申候、恐々謹言
二月廿八日 堀江勘兵衛
監物様
河喜多五郎右衛門殿
椋梨半兵衛殿
沖津作大夫殿
■ 口上
今日八ッ過ニ御人数不残御本陳へ御引取被成候、
松平右衛門佐殿手ニ未弐百ほとも有之由候を、爾
今御せめ被成候、もはや弐百迄ハ御座有間敷儀ニ
候へ共、有之との被申分ニ而御座候、今度討死衆
之書立御陳場ニ而立なから書進候
尾崎金左衛門 岩越惣右衛門 小坂半之丞
山川惣右衛門 平野弥平太
野瀬吉右衛門 沖津九郎兵衛 神足八郎右衛門
弓削与二右衛門 猿木勘左衛門 楯岡孫市
西沢文右衛門 松岡久左衛門 外山平左衛門
此外ニも可有御座候へ共、未与々より差出不参候、
手負ハ殊外御座候、与七郎殿・角助殿御無事ニ候、
角助殿ハ石疵少御おい候
一五郎右息八助殿石疵ニ而候、少ハ御痛可有之と相
見へ申候、其外之御息ハ御無事之由
一椋梨殿御息も無事
一ゑへの四郎首も参候事
何も/\手柄を被仕候、跡より可申上候
二月廿八日 堀江勘兵衛
判
監物様
河喜多五郎右衛門殿
椋梨半兵衛殿
沖津作大夫殿
以上
■ 昨日城のり御座候由其元へ相聞申二付而、為御使
本ノママ
者南斎安左衛門被差越御状忝拝見仕候、昨日七ッ
時分ニなべ嶋殿衆出丸之塀をこわし候とて取かゝ
り被申候而、それより二ノ丸へはいり被申候を見
申、則三ノ丸へ式部少一番のり仕候、それより拙
者なと惣御人数ものりこミ申候、二ノ丸・三ノ丸
ハやき討ニ仕候而早速事済申候、然処本丸へかゝ
り候而殊外手つよく二時余しらミ申候而もはや引
取申ニ究候処ニ、何とやらん仕 殿様御手之内式
部少手よりのりこミ、それより本丸へ御人数のり
こミ、本丸をかため夜前ハ夜をあかし、今朝夜明
ニ其儘諸手取かけはな/\しき合戦御座候、先可
別条手もおい不申候間、可御心安候、 殿様今度
天下之御外聞被成候、 上使衆并諸手衆御目ノ前
ニて候故、はれかましき事共ニ而候、尾藤金左衛
門・西沢文右衛門・山川惣右衛門・平野弥平太討
死ニ而候、我等内松井外記・堀口少右衛門其外馬
乗二人討死、手負も数多御座候、急候而先あらま
し申入候、四五日中ニハ罷戻ニて可有之候間、万
々以面可申入候、恐惶謹言
長佐渡
二月廿八日 判
長岡監物様
御報
尚々、早々御見廻ニ御使者被上段尤ニ存候、昨日
之城のりハ内々の儀ニても無之、俄之事候故御侍
衆も漸々取合申ていにて候、我等なとも漸取合申
候、急申候間、先あら/\申入候、御奉行衆へも
比由御申頼存候、以上
又申候、岩越惣右衛門・小坂半丞討死にて候、其
外御馬廻り衆なと数多可在之候へとも、いまたく
わしく不承届候、以上
■ 以上
咋廿八日之 御書、同日之亥之刻参着、謹而頂戴
仕候、一昨日廿七日ニ三ノ丸・二ノ丸・本丸御の
り取被成候間、其元之御様体心安可奉存旨被 仰
下候、誠以目出度奉存候、殊本丸ヘハ御人数一番
ニ乗込申、昨日迄押詰被為召置、則昨晩悉被為討
果候旨、天下之御誉可申上様も無御座候、随而四
郎一類・大矢野ノ小左衛門一党差越可申旨被 仰
下候、奉得其意、四郎一類四人・小左衛門党六人、
已上人数拾人則今朝差出申候、船中念を入候へと
申付候、此等之趣宜預御披露候、恐惶謹言
二月廿九日 長岡監物
坂崎内膳殿
廿八日監物ニ被下候御書并堀江勘兵衛より監物と御奉行江之奉書、外ニ口上書壱通、佐渡守より監物江之返状、廿九日監物より之御請状、共ニ合五通
■ 御端書御自筆
此方之仕合可心安候、以上
先度此方へ越候四郎母・大矢野の小左衛門・同四
郎兄弟先度越候分急不残越可申候、爰元廿七日ニ
三ノ丸・二ノ丸・本丸一日ニのり取候、可心安候、
二月廿八日 越 御判
又申候、小左衛門下人共不残可越候 已上
長岡監物殿
■ 為 御意申入候、今度貴理師旦御改之儀ニ付、宇
土・益城・八代之御惣庄や・小庄やなと之人しち
もはや可被指返之旨被 仰出候、一刻も急御返候
へとの儀ニ御座候間、其御心得可被成候、郡筒も
早々差返候へと被 仰出候間、明日郡々江之舟申
付直遣申候間、其御心得可被成候、 御帰陳未何
時分共不極申候、恐々謹言
二月廿八日 堀江勘兵衛
監物様
河喜多五郎右衛門殿
椋梨半兵衛殿
沖津作大夫殿
■ 口上
今日八ッ過ニ御人数不残御本陳へ御引取被成候、
松平右衛門佐殿手ニ未弐百ほとも有之由候を、爾
今御せめ被成候、もはや弐百迄ハ御座有間敷儀ニ
候へ共、有之との被申分ニ而御座候、今度討死衆
之書立御陳場ニ而立なから書進候
尾崎金左衛門 岩越惣右衛門 小坂半之丞
山川惣右衛門 平野弥平太
野瀬吉右衛門 沖津九郎兵衛 神足八郎右衛門
弓削与二右衛門 猿木勘左衛門 楯岡孫市
西沢文右衛門 松岡久左衛門 外山平左衛門
此外ニも可有御座候へ共、未与々より差出不参候、
手負ハ殊外御座候、与七郎殿・角助殿御無事ニ候、
角助殿ハ石疵少御おい候
一五郎右息八助殿石疵ニ而候、少ハ御痛可有之と相
見へ申候、其外之御息ハ御無事之由
一椋梨殿御息も無事
一ゑへの四郎首も参候事
何も/\手柄を被仕候、跡より可申上候
二月廿八日 堀江勘兵衛
判
監物様
河喜多五郎右衛門殿
椋梨半兵衛殿
沖津作大夫殿
以上
■ 昨日城のり御座候由其元へ相聞申二付而、為御使
本ノママ
者南斎安左衛門被差越御状忝拝見仕候、昨日七ッ
時分ニなべ嶋殿衆出丸之塀をこわし候とて取かゝ
り被申候而、それより二ノ丸へはいり被申候を見
申、則三ノ丸へ式部少一番のり仕候、それより拙
者なと惣御人数ものりこミ申候、二ノ丸・三ノ丸
ハやき討ニ仕候而早速事済申候、然処本丸へかゝ
り候而殊外手つよく二時余しらミ申候而もはや引
取申ニ究候処ニ、何とやらん仕 殿様御手之内式
部少手よりのりこミ、それより本丸へ御人数のり
こミ、本丸をかため夜前ハ夜をあかし、今朝夜明
ニ其儘諸手取かけはな/\しき合戦御座候、先可
別条手もおい不申候間、可御心安候、 殿様今度
天下之御外聞被成候、 上使衆并諸手衆御目ノ前
ニて候故、はれかましき事共ニ而候、尾藤金左衛
門・西沢文右衛門・山川惣右衛門・平野弥平太討
死ニ而候、我等内松井外記・堀口少右衛門其外馬
乗二人討死、手負も数多御座候、急候而先あらま
し申入候、四五日中ニハ罷戻ニて可有之候間、万
々以面可申入候、恐惶謹言
長佐渡
二月廿八日 判
長岡監物様
御報
尚々、早々御見廻ニ御使者被上段尤ニ存候、昨日
之城のりハ内々の儀ニても無之、俄之事候故御侍
衆も漸々取合申ていにて候、我等なとも漸取合申
候、急申候間、先あら/\申入候、御奉行衆へも
比由御申頼存候、以上
又申候、岩越惣右衛門・小坂半丞討死にて候、其
外御馬廻り衆なと数多可在之候へとも、いまたく
わしく不承届候、以上
■ 以上
咋廿八日之 御書、同日之亥之刻参着、謹而頂戴
仕候、一昨日廿七日ニ三ノ丸・二ノ丸・本丸御の
り取被成候間、其元之御様体心安可奉存旨被 仰
下候、誠以目出度奉存候、殊本丸ヘハ御人数一番
ニ乗込申、昨日迄押詰被為召置、則昨晩悉被為討
果候旨、天下之御誉可申上様も無御座候、随而四
郎一類・大矢野ノ小左衛門一党差越可申旨被 仰
下候、奉得其意、四郎一類四人・小左衛門党六人、
已上人数拾人則今朝差出申候、船中念を入候へと
申付候、此等之趣宜預御披露候、恐惶謹言
二月廿九日 長岡監物
坂崎内膳殿