宣紀公十一子・八代姫(花-清操院)は享保五年十二月の生まれ、寛保二年四月讃州高松藩(12万石)五代藩主松平讃岐守頼恭に輿入れした。讃州松平家は親藩・御連枝であり水戸徳川家の分家筋であるため、水戸松平家とも呼ばれる。頼恭は高松藩中興の祖とも称えられた。高名な平賀源内が当時の家臣として在った。
尚、頼恭の異腹の妹(守山藩主・松平頼貞女)が宇土細川藩四代藩主興生室である。
父・頼貞室が小笠原忠真女であり、細川忠利室・保寿院の姪という関係であることから、このような縁がつながったものと考えられる。
(蛇足:出雲国母里藩の第2代藩主松平直丘に嫁いだ細川綱利女楊姫は23歳で死去、継室として入輿したのがこれも頼恭の異腹の妹である)
- 頼重(よりしげ)〔正三位、讃岐守・左近衛権少将・参議〕
- 頼常(よりつね)〔従四位下、讃岐守・左近衛権少将〕(水戸藩主・徳川光圀の実子)
- 頼豊(よりとよ)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼桓(よりたけ)〔従四位下、讃岐守・侍従〕
- 頼恭(よりたか)〔正三位、讃岐守・左近衛権中将・参議〕
- 頼真(よりざね)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
八代姫は六代藩主・頼真の生母であり、嫁として紀伊藩徳川宗直の姫を迎え入れた。
安永七年正月十三日卒、59歳、高松浄願寺に葬られた。
長岡助右衛門是福室、小笠原備前長軌室、長岡興彭(刑部家養子)が同腹の妹弟である。