■度支彙凾(412)に「明和五年十二月公儀御觸」
文字銀同位を以懸目五匁ニ定り御銀吹立被仰付候間、有来丁銀・小玉銀取交可致通用旨、去々酉年相觸候得共、以来右五匁銀之儀は銀相場ニ不拘、金一両ニ六拾目替之積を以金壹歩ニ銀三枚、金壹両ニ銀拾貮枚之積渡方無滞可致通用候
右之趣國々えも可觸知者也
十二月
■度支彙凾(454)「安永二年貮朱判之事ニ付公儀御觸」
貮朱判之儀、御年貢金其外諸向上納金之内へ取交候は勿論、皆貮朱判ニても勝手次第上納可致候、尤世上通用之儀彌以國々迄も金と同様無滞可致通用候、且両替切賃之儀貮朱判両替屋より差出、同買受候節は、引替賃銀両替屋へ受取可申事ニ候處、心得違不同も有之趣相聞候間、以来右引替賃銀時々双場貮朱判壹両ニ付賣上四分買上分を限、格別不相當致間敷旨両替屋共へ申付候間、其分可被相心得候、以上
■度支彙凾(459)「安永三年七月貮朱判之儀公儀御觸」
貮朱判いまた京・大坂えも不行届、為替等も難取組、江戸面諸問屋より彼地問屋え拂等も差支候様相聞候間、猶又貮朱判吹高を相増、月々銀座より大坂御金蔵え差登せ、於京・大坂も通用有之筈ニ候間、諸問屋拂は勿論、為替等金と同様無指支取組、彌無滞通用可致候、右之通町々え相觸候間、其旨相心得無滞通用可致候、以上
七月
江戸期の通貨制度はなかなか理解しがたい。金貨・銀貨・銭の三種の貨幣が流通した。
金貨・銭は同じ計数貨幣であるが、一両が銭四貫文(4,000~6,500文)という変動相場である。(疋という単位があるがこれは貨幣の種類ではなく、銭十文を一疋とする呼称である)
銭・一文銭4貫文(4,000~6,500文)
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金貨・小判一両 = 二分金(2枚) = 一分金(4枚) = 二朱金(8枚) = 一朱金(16枚)
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銀貨・丁銀、豆板銀(50~60文)
銀貨はもともとは秤量貨幣で一両が50~60匁の変動相場であった。丁銀や豆板と呼ばれるものは重さを量ることになる。銀貨も金貨と同様の計数貨幣として判りやすくしたのが、二分銀・一分銀・二朱銀・一朱銀である。上記文書に貮朱判とよんでいるものは二朱銀のことである。写真はいわゆる「南鐐(なんりょう)」とよばれる貮朱判である。表には「銀座常是」とあり、裏には「以南鐐八片換小判一両」と刻印されている。
上記文書は銀貨の製造が遅滞し、為替や支払いに支障を来たしていることを物語っている。