津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

先祖附の提出を命ず

2011-05-17 17:36:57 | 歴史

 川口恭子先生のご指摘によると、先祖附の提出の一番古いものは、正徳四年四月に作成の命令が出されたとされる。現在我々が目にする先祖附--細川家北岡文書(永青文庫蔵)は、宝暦ごろ編纂されたものだという。
ご紹介する下記の文書は、度支彙凾「明和より天明迄法令條諭」(283)にある文書だが、家中の各々に対し先祖附の提出を求めている。宝暦から時代が下った明和期に出された、このような「達」は特別な意味を持つものだろうか。ちょっと気になる「達」である。

 御先祖様以来御代/\儀御家譜ニ記録有之事候へ共、猶追々増補被仰付事候、依之御家中先祖付ニ書出被置候外、若御武功其外之儀共舊記等ハ不及申、承及候趣も何分之事ニても書付可被差出候、尤傳之通書付可被差出候、且又急速ニ不及相達、今秋迄被差出候ても不苦候、承及等無之面々は其段も承届追て可被相達候、右之趣觸支配法へも可被達候、以上
      (明和八年)三月

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南鐐の流通 「度支彙凾」から

2011-05-17 14:37:45 | 歴史

 ■度支彙凾(412)に「明和五年十二月公儀御觸」
文字銀同位を以懸目五匁ニ定り御銀吹立被仰付候間、有来丁銀・小玉銀取交可致通用旨、去々酉年相觸候得共、以来右五匁銀之儀は銀相場ニ不拘、金一両ニ六拾目替之積を以金壹歩ニ銀三枚、金壹両ニ銀拾貮枚之積渡方無滞可致通用候
        右之趣國々えも可觸知者也
           十二月

 ■度支彙凾(454)「安永二年貮朱判之事ニ付公儀御觸」
貮朱判之儀、御年貢金其外諸向上納金之内へ取交候は勿論、皆貮朱判ニても勝手次第上納可致候、尤世上通用之儀彌以國々迄も金と同様無滞可致通用候、且両替切賃之儀貮朱判両替屋より差出、同買受候節は、引替賃銀両替屋へ受取可申事ニ候處、心得違不同も有之趣相聞候間、以来右引替賃銀時々双場貮朱判壹両ニ付賣上四分買上分を限、格別不相當致間敷旨両替屋共へ申付候間、其分可被相心得候、以上

 ■度支彙凾(459)「安永三年七月貮朱判之儀公儀御觸」
貮朱判いまた京・大坂えも不行届、為替等も難取組、江戸面諸問屋より彼地問屋え拂等も差支候様相聞候間、猶又貮朱判吹高を相増、月々銀座より大坂御金蔵え差登せ、於京・大坂も通用有之筈ニ候間、諸問屋拂は勿論、為替等金と同様無指支取組、彌無滞通用可致候、右之通町々え相觸候間、其旨相心得無滞通用可致候、以上
           七月

江戸期の通貨制度はなかなか理解しがたい。金貨・銀貨・銭の三種の貨幣が流通した。
金貨・銭は同じ計数貨幣であるが、一両が銭四貫文(4,000~6,500文)という変動相場である。(疋という単位があるがこれは貨幣の種類ではなく、銭十文を一疋とする呼称である)

銭・一文銭4貫文(4,000~6,500文)
    ∥
金貨・小判一両 = 二分金(2枚) = 一分金(4枚) = 二朱金(8枚) = 一朱金(16枚)
    ∥
銀貨・丁銀、豆板銀(50~60文)

銀貨はもともとは秤量貨幣で一両が50~60匁の変動相場であった。丁銀や豆板と呼ばれるものは重さを量ることになる。銀貨も金貨と同様の計数貨幣として判りやすくしたのが、二分銀・一分銀・二朱銀・一朱銀である。上記文書に貮朱判とよんでいるものは二朱銀のことである。写真はいわゆる「南鐐(なんりょう)」とよばれる貮朱判である。表には「銀座常是」とあり、裏には「以南鐐八片換小判一両」と刻印されている。

上記文書は銀貨の製造が遅滞し、為替や支払いに支障を来たしていることを物語っている。

 

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宣紀公女婿・細川興里

2011-05-17 08:38:46 | 歴史

                     宗家の「はなれ九曜紋」は使わない

 第十八子・軌姫(幾・常・成・錩--清源院)は支藩宇土細川家五代(四代藩主)興里に嫁いだ。わずか十ヶ月程で興里は死去している。

興里(源次郎、大和守、従五位下)享保七年正月廿九日肥後宇土ニテ(細川興生嫡男として)出生、同十九年十一月朔日源次郎興里初メテ将軍吉宗ニ初見シ奉ル、同二十年十一月二日家督相続、元文元年十二月十六日従五位下ニ叙シ大和守ト称ス、同二年五月廿八日徳川家治誕生ヲ賀シ助宗ノ差添ヲ献ズ、寛保四年二月八日参向公卿(勅使久我大納言通兄卿)ノ館伴ヲ命ゼラル、延享二年正月廿八日細川宣紀女幾ト婚姻整フ、同九月廿八日実弟井門大之丞(興周・興文)ヲ復家サセ急養子ニ願出ル、同十月五日江戸ニ於テ卒ス、享年二十四歳、法号泰厳院要叔紹玄、武州東海寺清光院ニ葬ル、後宇土轟山細川家菩提所ニ改葬ス(平成宇土細川家系譜より)

興里の実弟・興文の女・埴が宗家・治年室となった。治年の後継者として興文の子・立禮(埴・弟)の名前が挙がったとき、新田藩細川家をおもんばかり消極的であった。(宣紀が新田藩の出、宗孝・重賢・治年とその血脈である) このことに毅然と意見をし、受け入れを進めたのが興里室・清源院である。齊茲公誕生の秘話として今に伝えられている。

 

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