宣紀の十九子は津與、享保十年熊本で生まれた、生母は安野氏・民、同腹の兄弟に 、第9子 女子・勝(夭折・三歳) 、第11子 八代・花(松平讃岐守頼恭室) 、第17子 衛世・悦(長岡助右衛門是福室) 、第20子 興彭(長岡図書興行・養子)がある。寛保元年二月十一日縁組、安永六年八月廿日没、53歳。
女婿・小笠原長軌は小笠原備前家の六代目当主である。長得・長衛、茂道・七郎・大都・備前・美濃、家老・備頭等を勤め安永三年八月致仕。
(註)細川家には二流の小笠原家がある。
■備前家 ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎を祖とするもの。当主が備前を名乗る。
■多宮家 細川忠利夫人(寿光院)の甥・長賢を祖とするもの。
小倉藩・中津藩・杵築→三河吉田→岩瀬→遠州掛川→陸奥棚倉→肥前唐津の三藩
及び杵築の松平家が、寿光院の兄弟としてそれぞれ立藩している。
ちょっと時間的に間が空いてしまったが、「宣紀公女婿」シリーズの続編・・・
第十七子・悦姫(衛世--壽鏡院)は享保二(1717)年正月十五日熊本で生まれた。寛保二年(1742)八月廿七日に婚礼が行われた。女婿米田是福は代々家老米田家(15,000石 家老二座 称長岡姓)の七代目当主である。父は是直、母は松井家六代寿之女・津勢、岐一郎・是方・是重・是賢、壱岐、監物、助右衛門 元文三年八月部屋住にて家老職 賜二千俵、延享三年(父是直隠居)家督 大組頭、安永三年十二月隠居 賜千石 芳渚と改名、同四年八月十四日没 斎光院仁英芳渚
尚、祖父是庸は細川忠利の末子・南条元知(室・米田是長女・吟)の嫡子であり、是長の養嗣子となった。元知は「陽明学徒追放事件」に際し、藩主綱利(甥)に諫言して不興をかい永蟄居となった。
米田求政-是政-是季-是長=是庸-是直-是福-是知-是睦-是容-是豪=虎雄(是保)