以前、高祖父が書き残した「吉田傳太復仇現聞録」をご紹介した。史談会のN様に興味を持っていただいており、今朝ほど「藤村紫朗て知っとるですか」と電話をいただいた。
藤村紫朗は旧姓黒瀬、吉田傳太復仇現聞録に登場する黒瀬市郎助の実弟である。初代の官選山梨県知事であり、後男爵となった人だが、建築を生業とする私としては「藤村式建築」と称される擬洋風建築を数多くたてた人物として承知している。
熊本出身の明治初期の地方政治家として、熊本でも顕彰されるべき人物だと思うが、意外と熊本人はこの人の事を知らない。藤村氏自身が兄・黒瀬市郎助のことについては封印してしまったのかもしれなし、このことが原因して故里との交流も途絶えたのかもしれない。
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【藤村紫朗】
生年: 弘化2.3.1 (1845.4.7) ~没年: 明治42.1.5 (1909)
明治期の地方行政官。熊本藩士黒瀬市右衛門,登千の次男。萱野太平の養子となる。初め嘉右衛門と称した。尊王の志士として国事に奔走,文久3(1863)年七卿落ちに同行し,翌元治1(1864)年脱藩して長州軍に参加。慶応3(1867)年王政復古クーデタに呼応して高野山に挙兵。倒幕活動の間,多くの変名を用いたが,維新後藤村紫朗に定める。明治1(1868)年明治新政府の徴士となり,多くの官職を歴任。6年1月,山梨県に権令として赴任し,7年10月同県令に昇進,20年3月愛媛県知事に転じるまでの約14年間山梨県の行政を指揮。教育,勧業,土木事業など多方面で急進的な文明開化政策を一貫して進める。その際,棟梁小宮山弥太郎,松木輝殷らを登用して,「藤村式」と称される擬洋風建築を数十棟建設した。23年貴族院議員,29年男爵。実業家・政治家の藤村義朗は長男。 <参考文献>植松光宏『山梨の洋風建築』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E7%B4%AB%E6%9C%97