津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

藤村紫朗というひと

2011-05-25 12:22:58 | 徒然

以前、高祖父が書き残した「吉田傳太復仇現聞録」をご紹介した。史談会のN様に興味を持っていただいており、今朝ほど「藤村紫朗て知っとるですか」と電話をいただいた。

藤村紫朗は旧姓黒瀬、吉田傳太復仇現聞録に登場する黒瀬市郎助の実弟である。初代の官選山梨県知事であり、後男爵となった人だが、建築を生業とする私としては「藤村式建築」と称される擬洋風建築を数多くたてた人物として承知している。
熊本出身の明治初期の地方政治家として、熊本でも顕彰されるべき人物だと思うが、意外と熊本人はこの人の事を知らない。藤村氏自身が兄・黒瀬市郎助のことについては封印してしまったのかもしれなし、このことが原因して故里との交流も途絶えたのかもしれない。

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【藤村紫朗】
生年: 弘化2.3.1 (1845.4.7) ~没年: 明治42.1.5 (1909) 
明治期の地方行政官。熊本藩士黒瀬市右衛門,登千の次男。萱野太平養子となる。初め嘉右衛門と称した。尊王志士として国事奔走,文久3(1863)年七卿落ちに同行し,翌元治1(1864)年脱藩して長州軍に参加慶応3(1867)年王政復古クーデタに呼応して高野山挙兵倒幕活動の間,多く変名を用いたが,維新藤村紫朗に定める。明治1(1868)年明治新政府の徴士となり,多くの官職歴任。6年1月,山梨県に権令として赴任し,7年10月同県令に昇進,20年3月愛媛県知事に転じるまでの約14年間山梨県の行政を指揮教育,勧業,土木事業など多方面で急進的な文明開化政策一貫して進める。その際,棟梁小宮山弥太郎,松木輝殷らを登用して,「藤村式」と称される擬洋風建築を数十棟建設した。23年貴族院議員,29年男爵。実業家・政治家の藤村義朗は長男。  <参考文献>植松光宏『山梨の洋風建築』 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E7%B4%AB%E6%9C%97

http://kaz794889.exblog.jp/i14/

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「旦夕覺書」 花--6

2011-05-25 08:04:38 | 旦夕覺書

妙應院様初而御入國萬治四辛丑二月五日上使稲葉美濃守様御出御小袖五十白銀五百枚御馬壹疋同三月廿七日江戸御發駕四月廿八日に熊本御着座同日江戸江為御禮長岡監物殿住庵被差立候
    辛丑六月朔日改元寛文元年
  献上
黒繻子   籃鶴一箱   昆布一箱   御樽一箱
右之刻御船中より直に豊前小倉小笠原右近太夫様へ御寄被遊候御仕舞被成鶴崎江小倉之御供御家老澤村宇右衛門友好・坂崎清左衛門・柏原新左衛門・小姓組十人此時之江戸留守居番長岡九郎兵衛十左衛門殿■親父四千石人持

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    桑山左衛門殿江三齋公被■候節御書之写

  五月十三日之御状拝見申候 扨上様御息災之由目出度存候事

一、駿河大納言殿甲州江御越候由兎角何之道にもかた付不申候ては成不申事に候 朝稲彌太郎近年大納
  言殿江被成御付候 駿河在府之由此比此地江被参貴老江被参候時様子御尋候へは御気色替事は無
  之候 はり程の事棒之様に申成候と被語候由主君之事を加様に御成下候時左様に贔負に被申は奇特
  にて候へ共此中之ことく歴々之者子供を理不儘に御切候外別之気違は有間敷候事
一、馬之儀先書にも承候 年寄候故能も悪きも馬は入不申候事
一、松奥州彼年寄在江戸御奉公成間敷候間隠居被仕頭をそり有度由大炊頭江申来候由世間に沙汰仕候
  得とも貴老なとは一圓無御存由左様に可有之候 右之分に被申上候は如御書中気違か色を被立類に
  て可有候 されとも謀叛可仕と被存候はヽ政宗被上事十月可為時分候 上りきわに被申出其往来之面
  に當所務取こまるへき儀と存候 然を前永に被申出候事不思議千萬に存候 是こそはりを棒に申候か
  気違かにて可有之と存奉候
一、貴老両御所様江御目見候様子被仰越尤存候積殊之外強候へ共御食事さへよく候へは餘之事は入不
  申候 珍重存候 私此中無病に候つる當月に入積差出申候 いつも五月は如此候 大發無之候間可御心
  安事
一、島弾殿腫物同前之由貴様御父子御迷惑推量申候事
一、浅采女殿困之左様可有之と存候笑止にて土杢事さのみ痛不被申由珍重存候事
一、永傳十本丸へ口々夜々被詣息災之由珍重存候事
一、南光坊被炊大事と申候へ共又々能候由是おしき人にて候事
一、國師噂此前同前之由苦々敷儀候事
一、藤大學別儀も有之間敷體之由左様に可有之候 雅楽殿ひいきにて候間神明三寶もよけて通可申候
  谷大學身上可有御覧事
一、渡勘兵衛事少能様子有之由被召出か帰参此両條之内帰参に成候へは笑止と存候
一、御出頭衣之怖はやとくよりのことにて巳之刻之かヽやきはや申之下刻目出度頓而御口切たヽ一人御慰
  候由尤存候たヽ一疊の上に風爐御すへ御采女土杢にも無御見せ御一人御樂之山無餘儀候 當暮か
  来正月早々可罷下間私も池を掘り島をつき其中に堂をたて其中を半疊餘團一人之茶給所可仕と命を
  あらまし申候恐々謹言
           五月六日            三齋
                      桑左様
                         御返報



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