津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

殿のお出まし

2011-09-07 13:25:12 | 徒然

 最近元首相としての細川護煕様のお顔を度々TVで拝見する。野田総理の誕生にあたっては小沢氏との橋渡しなどに係られたらしい。なんといっても日本新党の創立者としては、愛弟子ともいえる野田氏の首相就任は、湯河原に遁世とばかりにはいかなくなってきたようだ。今日もフジTVの葛西アナが湯河原を訪問してインタビューしているところが放映されていた。永田町はこりごりと言われるが、愛弟子が殿のように短命内閣に終わらないように、自分の体験を通じていろいろアドバイスを為さるのであろう。

 日本新党の立党の当時、熊本では「殿ご乱心」という言葉をよく聞いた。ところが首相まで上り詰められ、長い自民党政治の終焉という結果をもたらされたことは、短い期間であったが後世に名を留められることであろう。その後の見事とも言うべき身の引きようには驚かされ、ましては陶芸家として見事な変身振りに再度驚かされた。そんな中での野田政権の誕生は、殿のお心内の埋火が掘り起こされた感がある。湯河原からのお出ましの機会が増えるのではないかと察せられる。

 どじょうが出てきて今日は・・・ならぬ、殿のお出ましは多いに気になる処ではある。

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荒木攝津守村重子孫--熊本に於ける二つの流れ

2011-09-07 08:43:06 | 歴史

 過日「荒木村重研究会」のMAさまから、この10月会員の皆様が高守城や田辺城を訪ねられるというご連絡をいただき感慨深いものがある。

 高守城は細川家の下で荒木善兵衛が預かっていた城であり、幽齋が田辺城に籠城の際高守を出て田辺に馳せ参じ善兵衛は共に籠城して戦っている。

 荒木村重にかかわる史料は種々伝わっているが、熊本に於いても善兵衛の系統と共に荒木流細田家の史料が残されている。ところがこの二つの史料に相当の食い違いがあり、どう解釈すればよいのか頭を痛めている。随分以前このブログでいろいろ書いたところ、村重のご子孫であるMAさまからのご連絡があり以降ご厚誼をいただくと共に、九州に調査の為に入られたときにお目にかかったりした。いささかの史料をお送りしたが、細川家における二つの村重の流れの解明もMAさまの熱意溢れるご努力に依り明らかになろうとしている。
今般の「高守城、田辺城」を訪ねるという企画も、MAさまのご努力の延長上にあると理解している。

 荒木流細田家については以下の様な事を、世にある史料との突合せも無いまま色々書いた。
今になっては冷や汗ものであるが・・・・・

            有馬一揆と細田栖院

            荒木家三系図を比較する

            荒木村重系細田氏消息

            伊也様御聟・田中半右衛門殿

            「浄勝院様御養女」谷家先祖附から

            荒木・細田系図-- 4 

            荒木村重系細田氏--谷氏--田中氏(長束氏)--三渕氏

            細川家家臣・谷氏 -2

            荒木・細田系図-- 3

            荒木・細田系図-- 2

            荒木・細田系図-- 1

今般のMAさまからのメールから、次第に細田氏系図の謎が私なりに理解できるようになってきた。感謝申上げると共にここにご紹介する。

■「細田系 本姓荒木氏」には村重の子供として荒木十次郎の弟に荒木村勝という名前があります。荒木十次郎は、『寛永諸家系図伝』によれば、荒木村重の童名が十二郎であり、嫡子荒木村次は賤ヶ岳の戦いで「疵をこうふり行歩かなはず」とあるので、「若年痛膝椚足故不継家」の記述と合っており、嫡子荒木村次と同一人物で良いと思われます。荒木村勝は『寛永諸家系図伝』には出ていません。荒木村勝の系図は、荒木善兵衛の系図とも合わず、荒木善兵衛と同一人物とも考えられません。しかし、これだけ細かい子孫の記述がありますので、実在の人物としか考えられません。塩川主膳の妹が母というのは極めて興味深いです。
荒木克之即ち荒木権右衛門については、他に資料はありますでしょうか?
以下の「津々堂のたわごと日録」に荒木権右衛門の名前がありますが、この人物と同一人物と考えて宜しいでしょうか?
荒木権右衛門克之が、初め京都所司代板倉重勝、1620年摂津三田藩主から久留米藩主になった有馬玄蕃頭豊氏の後、1620年から小倉藩主になった細川忠利に仕えたとして、年代は合っている様に思われますが。

■「細田系 本姓荒木氏」では、荒木十次郎つまり嫡子荒木村次の子に、荒木村完つまり荒木村常と、弥介があります。『寛永諸家系図伝』と比較すれば、弥介は荒木又兵衛村直に当ります。「一子小善ト云若年ノ時浅野安芸守ニ仕後不知行所」と書いてありますが、小善は『寛永諸家系図伝』では、福岡黒田家臣となる荒木村満に当ります。
『荒木村重研究序説』p373には、荒木村満について、『吉田家伝録』巻之十四が引用されており、「幼名 小膳 二歳ニシテ父没ス 故ニ浅野但馬守(長晟)小膳ヲ養育シテ長ナル」とあります。浅野但馬守(長晟)は1619年から安芸国広島藩主ですので、浅野安芸守が浅野但馬守(長晟)を指すと考えれば、書いてある事はほぼ同じ内容になります。
「細田系 本姓荒木氏」の記述の信憑性は結構高い様に思われます。

コメント (7)
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