過日「荒木村重研究会」のMAさまから、この10月会員の皆様が高守城や田辺城を訪ねられるというご連絡をいただき感慨深いものがある。
高守城は細川家の下で荒木善兵衛が預かっていた城であり、幽齋が田辺城に籠城の際高守を出て田辺に馳せ参じ善兵衛は共に籠城して戦っている。
荒木村重にかかわる史料は種々伝わっているが、熊本に於いても善兵衛の系統と共に荒木流細田家の史料が残されている。ところがこの二つの史料に相当の食い違いがあり、どう解釈すればよいのか頭を痛めている。随分以前このブログでいろいろ書いたところ、村重のご子孫であるMAさまからのご連絡があり以降ご厚誼をいただくと共に、九州に調査の為に入られたときにお目にかかったりした。いささかの史料をお送りしたが、細川家における二つの村重の流れの解明もMAさまの熱意溢れるご努力に依り明らかになろうとしている。
今般の「高守城、田辺城」を訪ねるという企画も、MAさまのご努力の延長上にあると理解している。
荒木流細田家については以下の様な事を、世にある史料との突合せも無いまま色々書いた。
今になっては冷や汗ものであるが・・・・・
今般のMAさまからのメールから、次第に細田氏系図の謎が私なりに理解できるようになってきた。感謝申上げると共にここにご紹介する。
■「細田系 本姓荒木氏」には村重の子供として荒木十次郎の弟に荒木村勝という名前があります。荒木十次郎は、『寛永諸家系図伝』によれば、荒木村重の童名が十二郎であり、嫡子荒木村次は賤ヶ岳の戦いで「疵をこうふり行歩かなはず」とあるので、「若年痛膝椚足故不継家」の記述と合っており、嫡子荒木村次と同一人物で良いと思われます。荒木村勝は『寛永諸家系図伝』には出ていません。荒木村勝の系図は、荒木善兵衛の系図とも合わず、荒木善兵衛と同一人物とも考えられません。しかし、これだけ細かい子孫の記述がありますので、実在の人物としか考えられません。塩川主膳の妹が母というのは極めて興味深いです。
荒木克之即ち荒木権右衛門については、他に資料はありますでしょうか?
以下の「津々堂のたわごと日録」に荒木権右衛門の名前がありますが、この人物と同一人物と考えて宜しいでしょうか?
荒木権右衛門克之が、初め京都所司代板倉重勝、1620年摂津三田藩主から久留米藩主になった有馬玄蕃頭豊氏の後、1620年から小倉藩主になった細川忠利に仕えたとして、年代は合っている様に思われますが。
■「細田系 本姓荒木氏」では、荒木十次郎つまり嫡子荒木村次の子に、荒木村完つまり荒木村常と、弥介があります。『寛永諸家系図伝』と比較すれば、弥介は荒木又兵衛村直に当ります。「一子小善ト云若年ノ時浅野安芸守ニ仕後不知行所」と書いてありますが、小善は『寛永諸家系図伝』では、福岡黒田家臣となる荒木村満に当ります。
『荒木村重研究序説』p373には、荒木村満について、『吉田家伝録』巻之十四が引用されており、「幼名 小膳 二歳ニシテ父没ス 故ニ浅野但馬守(長晟)小膳ヲ養育シテ長ナル」とあります。浅野但馬守(長晟)は1619年から安芸国広島藩主ですので、浅野安芸守が浅野但馬守(長晟)を指すと考えれば、書いてある事はほぼ同じ内容になります。
「細田系 本姓荒木氏」の記述の信憑性は結構高い様に思われます。