私がいま興味を持っている俳人・松根東洋城は、宇和島藩の家老の家の出である。その先祖を遡ると最上氏に至る。
(細川家家臣楯岡氏も同根であるが、祖光直はお家騒動に巻き込まれ130人の家臣を引き連れ、小倉細川藩にお預けとなり、この地で亡くなった。光直の死後二人の男子は罪を許され細川家家臣となった。)
11代 12代
最上義守---+--義光---+--義康
| | 13代 14代
| +--家親---義俊・・・・・・→交代寄合衆・・高家最上家
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| +--義親
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| +--(山野辺)義忠
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+---●(伊達政宗生母)
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+--義保・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊予伊達藩家老・松根家---→東洋城
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| 一門家老・楯岡城主13,000石
+--光直---+--孫一郎・定直--------→(細川家臣・楯岡小文吾家)
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+--蔵之助-----------→(細川家臣・楯岡三郎兵衛家)
そんな家柄のせいか、東洋城は大正天皇の御側近くに仕えた。
大正天皇の俳句についてのご下問に対しての東洋城の俳句が有名で、後の東洋城の俳句結社「渋柿」の命名の由来となっている。
とのゐのあした、侍従して俳句奉るべく、ご沙汰蒙りければ
かしこまりてたてまつるとて
渋柿の如きものにて候得ど
天皇はさらに説明を求められたのかどうか承知しないが、私のような凡人にはなんとも理解しがたい句である。俳句に於いては「前書にたよる句は未完成」というが、この句の前書は名文としてつとに有名である。
漱石の弟子として終生その意識は貫かれたようだが、かっての同志虚子とは袂を分かちている。
全くの偶然だが、私が大好きな久保田万太郎や飯田蛇笏が東洋城の弟子であったという。
ど素人の私がこの三人に共通するものを見つけられるわけも無いが・・・・嬉しい。