津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川九曜紋を考える

2011-09-26 17:06:26 | 徒然

   
  九曜紋       細川九曜紋



  【理科系古希爺の暇つぶし】 

細川九曜紋の誕生は、細川宗孝公が殿中に於いて乱心者に襲われ落命されたことに端を発している。
より見やすく、他の類似の紋との違いを引き立たせようとしたものである。

そのデザインが誰の手に依り、どの様な経緯で為されたのかは定かでない。(何方かご存知でしたらお教え下さい)

その細川九曜の紋を睨み付けていたら、法則めいたものがある事に気づいた。
果たしてこれが正解なのか、家紋の専門家にお尋ねしなければならないところだが、大きな間違いはないと思う。
内側の星と外周の星との距離は、内側の星の半径の1/2である。外周の星の上下左右の四つの星と、45度(135・225・315度)方向にある四つの星の中心点を夫々つなぐと、夫々の星はそのライン上に外接していることがわかる。そのことによってこのデザインを美しく見せている。外の星の直系はこれにより自ずと導かれてくる。下図に示す通りである。

商売用のCADを駆使して書いてみたが、ほぼこんなものではないのか・・・ご笑覧/\

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築山家記

2011-09-26 08:37:45 | 歴史

 幽齋公の生年は天文三年四月だとされる。綿考輯録によると三説あるのだそうだが、定説とされている天文三年四月廿二日説は、幽齋公が誕生後米田源三郎(求政)とともに、生母智慶院に将軍からお付を命ぜられた築山家の家記によるものだとされる。綿考輯録にその様に記されている。上田将雄先生の「細川幽齋の出自について」をよむと、永青文庫に於いてはその「築山家記」が見つからないと記しておられる。

 私はまだ内容を確認していないが、それと思わせるものが宮村典太の膨大な古記録「雑撰録」に所収されている。
嫡家は淀に代々在住しながらも細川家から禄を頂戴している。細川家家臣略系譜をたどると、四つの分家があり細川家に仕えた。
幽齋公以来の根本家臣といえる。

 これは早々に図書館に出かけてコピーをしなければ成らないと思っている。系図は手許にあるのだが・・・・・

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柹原文書から「大木土佐(兼能)」・・読み下し文

2011-09-26 08:27:29 | 歴史


一勢州長嶋之城に一向宗一揆を發し信長公ニ 

 敵對申籠城仕候刻土佐殿代々一向宗之門 

 徒ニて御座候故長嶋に籠城被致候 信長公大 

 軍にて御攻候へ共落城不仕剰氏家卜全

 なとヽ申信長公御秘蔵之侍大将討死仕候

 其翌年信長公又大人数にて御取懸被成

 此度は扱ひを御入城を於明渡申者城中

 之者共不残一命を御助可被成候間早々明渡し

 申様ニとの御意ニ候 城中にも長々籠城し

 士卒草臥申候故任御意可申と御請申上

   段々罷出候處ニ信長公兼々よりの御謀にて

  堤之陰に鉄炮を御ふせ置城よりの人数過半

 罷出候時分ニ一度に鉄炮を放懸尽く御討殺

 被成候 其時節跡に残り候者弐百人計在之候

 此者共信長にたばかられ申段を大キにいき

 とふり弐百人之者共一同に心を合せ皆々

 甲冑をぬぎすはだニ罷成信長公御一門方

 之備へ無二無三について懸り信長公の御

 舎兄津田大隈守殿をはじめ歴々の御一門

 十余人討取其外能侍数多討取申候 土佐殿

 弐百人之内ニてすぐれて御かせき能敵弐人

 御討取被成候 弐百人計之者も過半討死いたし

 其場を切ぬけ申者僅四五十人在之其刻

 土佐殿御年二五六歳と承及候事

一長嶋之後土佐殿御浪人にて御入候処陸奥

 守殿信長公より越中國御拝領之刻土佐殿

 長嶋にての武功を御聞及ニ成知行三千石ニ而

 御呼被成其後陸奥守殿肥後江御入部之刻

  も御供にて御越候事

一陸奥守殿御家ニて加賀越中之合戦其外

  肥後の国ニて一揆蜂起仕候刻土佐殿度々の

 高名在之由承及候へとも其場所之様子委

 細之儀は不存候事

一陸奥守殿御身上相果申候已後秀吉公より

 加藤主計頭殿小西攝津守殿両人肥後国を

 被仰付候砌陸奥守殿家来ニて名ある武士をハ

 秀吉公より御書立被成御朱印にて主計頭殿

 摂津守殿両人に御付被成候 土佐殿も御墨付

 之内ニて主計頭殿へ御出先知無相違御取

 候事

一文禄元年高麗初入之刻主計頭殿おらん

 かいへ御働おらんかいの内裏御取懸被成候刻

 おらんかい人大勢ニて罷出半弓を射かけ

 てしげく防申候刻土佐殿一番に鑓を御入

 刻其日の一番鑓ニて御座候事

一かくなミ人十万ニて罷出候時節主計頭殿一手

 にて御追拂被成候 此時も土佐殿一番に鑓を

 御打込候事

一高麗にて主計頭殿よりはつかいと申城に

 土佐殿を城代として人数五百御預被成候事

一高麗より中帰朝之刻主計頭殿事人の

 讒言により秀吉公御前悪敷伏見ニて閉門

 被仰付候処其時節大地震ゆり申候刻主計頭殿

 土佐殿ニ御申にて閉門ニて御入候へ共此時節

 格別之事ニ候間御登城可被成と思召候か如何

 可被成哉と被仰候へは土佐殿一段御尤ニて御座候

   早々御登城被成候様ニとすヽめ被申刻土佐殿

   御供ニて被出候 主計頭殿御登城在之秀吉公へ

   直ニ御目見被成秀吉公御感ニて其後閉

   門御赦免被成候事

 一慶長五年石田治部少輔一乱之刻主計頭殿

   御内室大坂ニ御入候を治部少輔大坂城中江

 人質に取置申候主計頭殿儀 権現様

 御一味ニて御座候故御内室をぬすみ肥後へ

 下し申様ニと土佐殿に被仰付候其時節

 土佐殿大坂ニ御入候故右之通被仰付刻土佐殿

 調儀を以主計頭殿内梶原助兵衛と申老人と

 相談にて無難御内室を城中よりぬすみ出し

 肥後へ御下し候 此段主計頭殿大キに御感悦

 被成候 主計頭殿御内室は水野和泉守殿御息

 女ニて御座候を 権現様御養子被成主計頭へ

 被遣候紀州大納言様御前様御母儀様にて

 御座候事

一土佐殿大坂ニて中風を煩出し十死一生に

 有之候處主計頭殿土佐殿宿所へ御見舞

 被成土佐殿の頭を主計頭殿御ひざの上にのせ

 何とそして此度本復仕候へ其方相果候へハ

 我片うで落たると同前なりとて御落

 涙被成候由此御一言骨髄に徹し忝く

 被存追腹を被致候事根本此御一言より

 發り申候由承及申候事

一慶長十六年六月廿四日主計頭殿御死去

 被成候を其侭土佐殿宿所へ御帰柿原孫三郎

 を数奇屋へ御よび此度御供申覚悟之由

 被申渡候へは孫三郎申候ハ其段せんぎをとげ

 理のつよき方に御付可被成候私理ニ負ケ

 申候ハヾいかにも御供可被成候若又私申所理

 強御座候ハヾ御供之儀思召留り可被成とて

 段々主計頭殿へ土佐殿御奉公之品を

 かぞへたて扨申候は足軽之御奉公之御知行

 御加増も無之候結句殿様へ御不足ハ在之

 筈にて御供之儀ハ沙汰にも及不申事と

 申候処土佐殿御申候は此方之奉公と主人之

 恩賞とを算用づくに仕候は武士道にて

 無之候一言之情ニても万石之知行にも不

 被替事有之候其方なとが様なる武功之

 者我等内に召仕候も皆々殿様の御影にて

 こればかりもいか程の御加増にもかへぬ事候

 其外段々忝事共御申立かく存極め候上は

 誰人か申とても心底替り可申覚悟ニ無之候

 との事ニて六月廿五日辰ノ刻ニ切腹被成候

 兼而より数奇屋を新敷造作被成候其時分ハ

 未半造作ニて在之候由其数奇屋ニ而御切

 腹被成候事

    以上   

 

 

コメント (2)
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