津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

地図散歩・新町-塩屋町界隈

2011-09-23 21:40:11 | 熊本

 熊本城の西の入口は熊本YMCA近くの法華坂下の新一丁目御門である。

                   http://shinmachi.otemo-yan.net/e150718.html

 この周辺にも大身の家臣の屋敷があった。
新町から上熊本へ至る市電が、蔚山町電停の先で左へクランクして進むが、その左手に大きな屋敷があり一帯を木下町と称していた。
秀吉の正室高臺院の甥に当る、木下延俊(日出藩主・室忠興妹加賀)の三男・延之(3,000石)を家祖とする木下家が、この重要地点を守るために代々屋敷をここに置いた。その故を以って木下町と称していたが、現在は新町3丁目と素っ気無い。

 昨日ご紹介した一連の地図を見ると、木下氏が入る前にはここが南条左衛門の屋敷であったことが判る。
細川興秋の娘・鍋姫を夫人とした南条元信のことである。鍋姫は幼くして父を亡くし、結婚後の晩年は元信が質(牢)屋暮らしを余儀なくされる事件が起きる。養嗣子・元知(忠利末子)は、時の藩主綱利に、陽明学徒追放に関して諫言し永蟄居の処分を受け、あたらの人生を棒に振った。そんな鍋姫は城内に住まいが在ったともいうが、南条家の屋敷がこの場所にあったとは新発見であった。
(追記:時代を遡った「加藤氏代熊本城図之圖」を見ていたら、同じ場所に南条若狭の名前があった。)
南条家にしろ、木下家にしろ細川家との縁によってこの重要な場所の守衛を任されていたのであろう。

新幹線の開通に当り、段山(だにやま)と呼ばれた一帯は、往時の地図とは比べようが無いように様変わりしてしまったが、ここ木下町は健在である。

 余禄として高祖父・上田久兵衛の先祖源右衛門の屋敷を塩屋町に発見、こういうことがあるから想像をたくましくして地図をながめてすごすのも、秋の夜長にはもってこいである。

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間違いですから・・・・・・・・・

2011-09-23 12:14:54 | 熊本

 先に「高麗門」の遺構が発見されたことをご報告した。
意外と情報が少ない上に、熊本県の下記情報に於いて所在の場所が間違っていることに気づいた。

         http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/ruinkourai.html ・・・・・これ間違い。

 月曜日に熊本県文化課に連絡する手間が増えてしまった。

正確な位置はこちらからどうぞ・・・
         http://yumeko2.otemo-yan.net/e351055.html 「地図」をクリックして下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 城下町図を眺めていると、この高麗門の前は勢屯になっている。
そして時代が替わっても、目の前に大身の屋敷が位置付けられている。
     ・志方半右衛門  (高麗門・塩屋町之図63)  御弓廿張(頭)千石(寛文四年六月・御侍帳)
     ・中根治兵衛            ( 同 64)  御物奉行・千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
     ・柏原弥七郎            ( 同 65)  六百石 大組付
     ・柏原弥七左衛門         ( 同 66)  御鉄炮三十挺頭 五百石

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