熊本城の西の入口は熊本YMCA近くの法華坂下の新一丁目御門である。
http://shinmachi.otemo-yan.net/e150718.html
この周辺にも大身の家臣の屋敷があった。
新町から上熊本へ至る市電が、蔚山町電停の先で左へクランクして進むが、その左手に大きな屋敷があり一帯を木下町と称していた。
秀吉の正室高臺院の甥に当る、木下延俊(日出藩主・室忠興妹加賀)の三男・延之(3,000石)を家祖とする木下家が、この重要地点を守るために代々屋敷をここに置いた。その故を以って木下町と称していたが、現在は新町3丁目と素っ気無い。
昨日ご紹介した一連の地図を見ると、木下氏が入る前にはここが南条左衛門の屋敷であったことが判る。
細川興秋の娘・鍋姫を夫人とした南条元信のことである。鍋姫は幼くして父を亡くし、結婚後の晩年は元信が質(牢)屋暮らしを余儀なくされる事件が起きる。養嗣子・元知(忠利末子)は、時の藩主綱利に、陽明学徒追放に関して諫言し永蟄居の処分を受け、あたらの人生を棒に振った。そんな鍋姫は城内に住まいが在ったともいうが、南条家の屋敷がこの場所にあったとは新発見であった。
(追記:時代を遡った「加藤氏代熊本城図之圖」を見ていたら、同じ場所に南条若狭の名前があった。)
南条家にしろ、木下家にしろ細川家との縁によってこの重要な場所の守衛を任されていたのであろう。
新幹線の開通に当り、段山(だにやま)と呼ばれた一帯は、往時の地図とは比べようが無いように様変わりしてしまったが、ここ木下町は健在である。
余禄として高祖父・上田久兵衛の先祖源右衛門の屋敷を塩屋町に発見、こういうことがあるから想像をたくましくして地図をながめてすごすのも、秋の夜長にはもってこいである。