熊本藩年表稿をみると宝永三年二月六日、「松平美濃守方にての将軍お成りに綱利出席」とある。同年九月三日、十二月十一にも同様のことが有った。
将軍とは徳川綱吉であり、松平美濃守とは側用人・柳沢吉保のことである。
この時期のわが綱利公は江戸に於いては「夜食越中」などと仇名されすこぶる評判が悪い。
翁草巻77 元寶荘子下 「吉保誇権」
吉保権に誇て大名旗本の屋敷を無體に所望し、或は繁昌の市店を追退て己が下屋敷とし、
又賄賂の金銀堆く層■を成せば、用達菱屋庄左衛門より、江府中へ貸付させ、高歩を取り、若
し返済滞るときは、其町より辨へさせ、其厳なる事公儀御為替銀拝借にも過たり、又萩原近
江守等と謀つて、あらゆる新法運上課役を以て世を虐し、其公納半を過て、吉保が有とす、斯
く金銀を聚て銅の筥を製して金千両宛を納め、竊び/\に領國甲府へ差登せて、城内に埋
て要害金とする吉保が底意の程こそ測られぬ、総じて天下の列侯も吉保へ不諂輩へは、忽
過分の御手傳御用、或は臨時の課役をかくるに仍り、大に是を迷惑して、さしも功家の歴々、
各吉保に手を拱て因み寄り、其難を避ん事を欲す、吉保に諂ふ輩大家國主の内にては、藤堂
和泉守、松平伊豫守豊前 細川越中守等、其餘勝て計りがたし、中にも 細川越中守綱利は、細川
三齋の曾孫にて、世に知られたる家柄なるに、などやらん諸家に抜んでゝ、柳澤家へ追従諂
世の人口を不愧、常に夜食を送り、後には御夜食料とて代銀にて遣し、又柳澤武運祈之為と
て、護持院の月輪院へ大業なる祈祷をあつらへ、様々軽薄を盡さるれば、皆人嘲て夜食越中
と異名せり因て吉保も細川事を殊に贔屓して、御城北之丸御普請御手傳を表向は越中守
に願はせて勤之させ、内々金銀の出方は吉保が手法を以て細川方へは掛けざりしとぞ
そんな状況の中ではあるが、以前ご紹介したヤフオクに出品された綱利の書状はまさに十二月十一日のお成りに関するものである。
綱利の得意満面たる様が書面にあふれている。
(この文書、無理にでも落札すればよかったと思うが、今となっては後の祭りである)
のし内膳へ申候左之趣
友山へも可被相達候已上 友山:(内膳家二代)長岡忠恒
一筆申入候甚寒之
節
公方様益御機嫌能
ヒ成御座候昨日者
御病後初而松平
美濃守亭へ被為
成候之處天気茂好
御機嫌叓
還御恐悦之至奉
存事ニ候其節我等
儀 御先詰被
仰付 御講釈相聞
折紙下面
御仕舞拝見其上
御念頃之以
上意 御手自御目録
頂戴之謀誠以重畳
有難仕合冥加之至ニ
奉存事ニ候此如為可
相述如新ニ候 恐々謹言
越中
十二月十二日 花押
長岡内膳殿 (内膳家四代忠季)
長岡図書殿 (刑部家四代興章)