津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鷹匠のこと

2017-02-23 09:28:21 | 歴史

 この歳になると物覚えが悪いこと甚だしい。数日前に見た「鷹匠の扶持」が書かれていた資料の所在が判らない。
何の本を読んだのか、何の資料に目を通したのかを振り返ってみるが、それとて思い出せないからどうしようもない。

昨日届いた熊本城顕彰会発行の季刊冊子「熊本城」に村田真理氏の、熊本城の記録Scene11「鷹狩」が前回と今回にわたり掲載されていて興味深く読んだ。
その中で氏は鷹匠町の絵図に一時期「鷹部屋」が存在しないことに疑問を持っておられた。いわゆる徳川綱吉の「生類憐みの令」が影響しているのではないか。
この論考では触れられていないが、藩主の居館「御花畑」の絵図を見ると、藩主の居室に非常に近い場所に「鷹部屋」が設けられているのが判る。
「鷹狩」用の「御鷹」は参勤交代のお供さえしたという大事な存在であるということを考えると、藩主の身近なところに常時飼われていたと考えるのが妥当かもしれない。
鷹匠町からは「御花畑」南の「追廻」に一本の道がつながっており、僅かな距離である。
鷹匠たちが毎日「御花畑」へ通ってお世話申し上げたとは考えられないだろうか。

ふと「歳序雑話」と「番太日記」を読んだことを思い出した。B5ファイルがデスクの目に立っている。
「これだ・・・」と思って眺めてみると、「史料細川家文書御印の物について」を一緒にファイルしている。
その中に「御鷹師衆之覚」として17名の名前と俸給が記されていた。
頭と思える人が「御切米三拾石八人扶持 拓植九右衛門尉」である。又「拾石當年ゟ加増」とあり、決済判と思われる忠利のローマ字印が押されている。
時代が良くわからないが肥後入国直後ではないかと推察している。

また、別のページには小倉時代の資料として「はやふさのすかけ候所覚」などの記録もある。こちらは寛永三年十二月と年次もはっきりしている。

最近は鳩やカラスやヒヨドリなどの撃退のために現代の「鷹匠」が登場し、「鷹」が活躍していると聞く。
大変結構なことではある。

   

                              が藩主の居間  が御鷹小屋


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