熊本では加藤・細川時代を通じて献上ものとして注目されたのは「蜜柑」である。
細川藩政時代においては500箱ほどを、将軍家、幕閣、付き合いの深い大名・旗本、また禁裏や公家衆に贈られている。
最も将軍家には「十一月二十箱」とあり、「熟次第十二月差上申事も御座候」とある。
裏年や気候の関係で不作になった折は、数を減らしたり、送り先を減らしたり苦労をしている。
贈答を受ける側からすると、例年の事とて待ちかねているのだ。
熊本には天下に聞こえた名品といわれるものが少ないように思える。贈答は当時の社会では必然の事でいろいろ苦労も多かったようだ。
将軍家には毎月「国物」が二品ほど献上されるが、十一月は「寒気御機嫌伺」として蜜柑を含め四品が献上されている。
一月は桑酒・浜塩鯛、二月砂糖漬梅・銀杏、三月麻地生酒・塩鴨、四月加世以多・干鯛、五月砂糖漬天門冬・糟漬鰤、六月朝鮮飴・佐賀関鰑、七月八代染革・丸熨斗鮑、八月素麺・清水海(水前寺苔)、九月御志なひ(竹刀)・海茸、十月密漬・塩蕨、十一月菊池苔・糟漬鰷(はえ)・八代蜜柑・唐海月、十二月白芋茎・塩煮鮑などが記録されている。
量的にはいたって少なく、最高級品が一品という感じである。
徳川実記には慶應元年九月四日の項に「細川越中守、加世以多一箱、佐賀関錫一箱献上」とあると熊本藩年表稿は記しているが、佐賀関錫とあるのは「佐賀関鰑」のまちがいであろう。上の写真は現在市販されている「加勢以多」だが、献上された品物とは趣を異にしている。
当時のものは箱に流し込まれたマルメロの羊羹のようなものだとされる。細川護貞様のお話によると「大正十年ごろ杉の曲げ物の箱に入っていた羊羹のような菓子をごく薄く切って」食べたと仰る。
現在では写真のように「カリンのジャム」を挟んだ形で売り出されているが、独特の風味が往時をしのばせている。
お茶席にうってつけの熊本名菓である。
寛政八年七月には、御国の鯛が献上されているが二十三日「不良」として返却されている。
熊本藩年表稿には「この日より藩主以下謹慎、藤崎宮祭礼も9月15日に延期、寺々の鐘も打ち方止め、幕府の指示により八月十六日より平常に復す」とある。
この時期藩主齊茲は熊本に在す。担当の者はさぞかしお叱りを受けたことであろうが詳細は判らない。