津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠興の猶子

2017-09-09 10:32:00 | 歴史

 猶子とは「なお子の如し=訳:あたかも実子のようである」と解説されている。「兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ」ことだが、寛永11(1634)年12月「泰寿院娘を三齋の猶子とす」という記事がある。(度支年譜)
この時期三齋は72歳、八代に居る。想像に難くないが泰寿院とは加来佐左衛門・室の事であろう。
猶子としたのはその娘・佐舞(お三)、後に宇土細川藩二代藩主有孝の正室となった。まさに他人の子である。
佐舞(源立院)は元禄11年(1698)2月に64歳で亡くなったとされているから、生年を逆算するとまさに時期が一致する」。
「平成宇土細川家譜」によると、初名を「さき」と呼んだらしい。

一方興味深い資料が存在する。寛永十七年九月廿七日三齋は八代において忠利と共に口切のお茶を楽しんでいる。
忠利は「おしほ」なる娘に逢い、そののちその可愛らしさを愛でて父三齋に書状(細川家史料-1060-)を送っている。
       「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」
同日付の三齋書状(1660)では、「今日ハ来儀候て口切目出度存候」の書き出しで、種々認めている。
       「今日ハしほへいろいろ懇ニ被仕候、満足申、ぬしも事之外嬉しかり候、以上」
私は、この「しほ」なる可愛らしい少女もまさしく佐舞(お三)の事だと確信しているのだが、裏付ける資料がない。

一方舟田義輔氏の論考「宇土細川支藩成立の前後より」を見ると、お三の生母については異同がある。
これ等の食い違いをどう理解するのか? 正解が導かれることはなさそうである。

     兵右衛門---・---三右衛門(八代分領解体後本藩家臣)
         |
           ・---三七・兵右衛門(若死)---------お三(立法院養育・忠興養女--行孝室)
         |
           ・---いせ(立法院・忠興側室北の丸殿)
         |
           ・---佐左衛門(八代分領解体後本藩家臣) 

 綿孝輯録・巻六二に次のような記事がある。「一書、宮松殿及ひ立法院殿をも宇土ニ移置と有、考ニ立法院は加来兵右衛門娘なり、豊前以来化粧田五百石三斎君より被下置、御懇之儀ハ加来が家記に詳也、三斎君御養女ニ被成置たるおさん殿も加来か娘也、後行孝主の室也、三斎君御逝去之砌も御一所八代ニ御座候而、暫く小川に御住居、無程宇土ニ被移候なるへし」



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