■石川源之進は「石川寿提彦(南東2-2)家」の4代目である。
初代の父・吉左衛門常安は、寛永九年陽明学徒が肥後国から追放になった際、学徒の故をもって離国した。老母と妻、四人の子と一人
の婢と、都合七人の家族を熊本に残して、同様追放された浅山次郎左衛門とその一族に付添い京都に帰った。
母が朝山次郎左衛門の父永田亮(了)智の妹であることによる。
3・4代は婿養子である。父杢平は、葦北・下益城・上益城・宇土の郡代を勤めた。
家紋は「隅切り角に矢筈」ただし肥陽諸士鑑では「隅立て角に矢筈」である。今一つ「隅切り角七宝」がある。
■石川佐右衛門は「石川尉之助(南東58-1 船)家」の9代目、尉右衛門とも称す。代々御船頭の家柄である。
家紋は「丸に隅立て角」か?
■石川小七郎は「細川藩家臣略歴」ではその名を確認できない。
家紋は「丸に三つ蒲公英(タンポポ)」紋ではないかと考えるが如何・・・「蒲公英紋」は大変少ないというから全く自信はない。
■石川源太右衛門は「石川源八郎(東南3-8)家」の2代目である。
家紋は「丸に加文字紋」「七宝に加文字紋」である。
■石川寿元は「細川家家臣略歴」には記載がない。医師か?
家紋は「七つ割隅立て結」「酢漿草」である。
■一村弥三兵衛は「一村 漸(南東2-15)家」の 6代目・熊三郎(弥三兵衛)か。
家紋については名称不知、「細川家家臣略歴」においてはデザインが左右逆になっている。
■一宮儀兵衛は勝竜寺以来の「一宮白馬(東南4-13)家」の9代目である。
家紋は「丸に霞紋」、一宮氏は若狭の逸見の一族らしい。家紋も逸見氏に由来していると思われる。
■一宮甚之助も勝竜寺以来で白馬家と同族、「一宮九郎次(東南4-12)家」の5代目である。
家紋は「丸に霞紋」及び「丸に算木」である。
■「肥陽諸士鑑」に一宮吉右衛門が登場する。勝竜寺以来「一宮一馬(東南4-15)家」の6代目である。
家紋は「丸に霞」及び「丸に酢漿草」紋に二つである。
一宮家は上記三家とは別に、「一宮彦九郎(東南4-14)家」が「細川藩家臣略歴」に登場するが、「侍帳(家紋入)」「肥陽諸士鑑」では見受けられない。
扶持取の家であるがゆえ記載がないもの思われる。
■糸川長左衛門は丹後以来の「糸川 直(南東2-13)家」の7代、もしくは8代目である。
家紋は「三つ盛亀甲に□□」
■糸川小介は丹後以来「糸川平八郎(南東2-19)家」の5代、「直家」と同族である。
こちらの家紋は「隅切り角に六曜」今一つは「隅切り角に橘」紋、これが「肥陽諸士鑑」では「丸に橘」紋となっている。
■肥陽諸士鑑に糸川源右衛門の名前がある。鶴崎御船頭と書き込みがある。ただし「細川家家臣略歴」には名前が見いだせない。
家紋は「丸に橘」、「平四郎家」との関りが伺える。
■生駒新九郎は「生駒新太郎(南東2-11)家」の9代。
家紋はよく見かけるように思うが、数冊の家紋帖とWEBで検索できる家紋帖などを眺めたが発見できない。
■飯田徳次家は「飯田才平(東南3-10)家」の8代目。
家紋は△が三段重なっているが、正式名称は不知。
■飯田源兵衛は「飯田 静(南東2-14)家」の7代目忠蔵(源兵衛)である。
家祖は加藤清正家臣として知られる飯田角兵衛である。静家はその三男の流れである。
家紋は御存じ「杏葉」である。大友氏との関係はないように思える。
■飯田庄右衛門は静家と同様の飯田角兵衛の流れをくむ分家で「飯田安衛(東南3-2)家」の6代目である。
しかし家紋は「静家」とは全く違い、「鞠寄せ」である。
■飯岡隼八は「飯岡源蔵(南東2-10)家」の4代。
家紋は「(子持ち)柊紋」だと思われるが如何。
■今井源太左衛門は「今井臼平(東南3-18)家」の4代・勘五(久兵衛・源太左衛門)である。
家紋は「籠目紋」である。
■入江徳左衛門は丹後以来の家で、田辺城にも籠城した入江平内を初代とする、「入江傳十郎(東南4-20)家」の9代・純次(徳左衛門・直右衛門)である。
家紋は「隅立て角に矢筈」
武家家伝に入江氏の紹介があるが、家紋については全然違っている。
■入江平之丞は「入江謙五(東南4-17)家」の7代か?
この入江家は初代の父・順幸に「霜女覚書」を残した霜が嫁いでいる。
家紋は「井桁」である。
■入江又七郎は「入江次郎太郎(東南4-18)」の7代・又七郎(孫之丞)である。
上の家紋は非常に珍しく正式名称は知りえない。下は「丸に抱き角丸」
「肥陽諸士鑑」には「隅切り角に引両」と「丸に抱き角丸」が紹介されている。
■入江弥喜多は「入江林九郎(東南4-19)家」の5代である。「次郎太郎家」の分家筋で家紋も同様である。
「肥陽諸士鑑」についても「次郎太郎家」と同じである。