津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御侍帳・家紋から考える(4)

2019-05-06 11:46:42 | 史料

                                                                      
      ■石川源之進は「石川寿提彦(南東2-2)家」の4代目である。
   初代の父・吉左衛門常安は、寛永九年陽明学徒が肥後国から追放になった際、学徒の故をもって離国した。老母と妻、四人の子と一人
         の婢と、都合七人の家族を熊本に残して、同様追放された浅山次郎左衛門とその一族に付添い京都に帰った。
         母が朝山次郎左衛門の父永田亮(了)智の妹であることによる。
   3・4代は婿養子である。父杢平は、葦北・下益城・上益城・宇土の郡代を勤めた。

   家紋は「隅切り角に矢筈」ただし肥陽諸士鑑では「隅立て角に矢筈」である今一つ「隅切り角七宝」がある。

  ■石川佐右衛門は「石川尉之助(南東58-1 船)家」の9代目、尉右衛門とも称す。代々御船頭の家柄である。
   家紋は「丸に隅立て角」か?


  ■石川小七郎は「細川藩家臣略歴」ではその名を確認できない。
   家紋は「丸に三つ蒲公英(タンポポ)」紋ではないかと考えるが如何・・・「蒲公英紋」は大変少ないというから全く自信はない。

  石川源太右衛門は「石川源八郎(東南3-8)家」の2代目である。
   家紋は「丸に加文字紋」「七宝に加文字紋」である。

  ■石川寿元は「細川家家臣略歴」には記載がない。医師か?
   家紋は「七つ割隅立て結」「酢漿草」である。

  一村弥三兵衛は「一村 漸(南東2-15)家」の 6代目・熊三郎(弥三兵衛)か。
   家紋については名称不知、「細川家家臣略歴」においてはデザインが左右逆になっている。

  ■一宮儀兵衛は勝竜寺以来の「一宮白馬(東南4-13)家」の9代目である。
   家紋は「丸に霞紋」、一宮氏は若狭の逸見の一族らしい。家紋も逸見氏に由来していると思われる。

  ■一宮甚之助も勝竜寺以来で白馬家と同族、「一宮九郎次(東南4-12)家」の5代目である。  
   家紋は「丸に霞紋」及び「丸に算木」である。

  ■「肥陽諸士鑑」に一宮吉右衛門が登場する。勝竜寺以来「一宮一馬(東南4-15)家」の6代目である。  
   家紋は「丸に霞」及び「丸に酢漿草」紋に二つである。

   一宮家は上記三家とは別に、「一宮彦九郎(東南4-14)家」が「細川藩家臣略歴」に登場するが、「侍帳(家紋入)」「肥陽諸士鑑」では見受けられない。
   扶持取の家であるがゆえ記載がないもの思われる。   

  ■糸川長左衛門は丹後以来の「糸川 直(南東2-13)家」の7代、もしくは8代目である。
   家紋は「三つ盛亀甲に□□」

  ■糸川小介は丹後以来「糸川平八郎(南東2-19)家」の5代、「直家」と同族である。
   こちらの家紋は「隅切り角に六曜」今一つは「隅切り角に橘」紋、これが「肥陽諸士鑑」では「丸に橘」紋となっている。

  ■肥陽諸士鑑に糸川源右衛門の名前がある。鶴崎御船頭と書き込みがある。ただし「細川家家臣略歴」には名前が見いだせない。
   家紋は「丸に橘」、「平四郎家」との関りが伺える。 

     ■生駒新九郎は「生駒新太郎(南東2-11)家」の9代。
   家紋はよく見かけるように思うが、数冊の家紋帖とWEBで検索できる家紋帖などを眺めたが発見できない。

  ■飯田徳次家は「飯田才平(東南3-10)家」の8代目。
   家紋は△が三段重なっているが、正式名称は不知。

  ■飯田源兵衛は「飯田 静(南東2-14)家」の7代目忠蔵(源兵衛)である。
   家祖は加藤清正家臣として知られる飯田角兵衛である。静家はその三男の流れである。
   家紋は御存じ「杏葉」である。大友氏との関係はないように思える。

  ■飯田庄右衛門は静家と同様の飯田角兵衛の流れをくむ分家で「飯田安衛(東南3-2)家」の6代目である。
   しかし家紋は「静家」とは全く違い、「鞠寄せ」である。

  ■飯岡隼八は「飯岡源蔵(南東2-10)家」の4代。
   家紋は「(子持ち)柊紋」だと思われるが如何。

  ■今井源太左衛門は「今井臼平(東南3-18)家」の4代・勘五(久兵衛・源太左衛門)である。 
   家紋は「籠目紋」である。

  ■入江徳左衛門は丹後以来の家で、田辺城にも籠城した入江平内を初代とする、「入江傳十郎(東南4-20)家」の9代・純次(徳左衛門・直右衛門)である。
   家紋は「隅立て角に矢筈」
   武家家伝に入江氏の紹介があるが、家紋については全然違っている。

  ■入江平之丞は「入江謙五(東南4-17)家」の7代か?
   この入江家は初代の父・順幸に「霜女覚書」を残した霜が嫁いでいる。
   家紋は「井桁」である。

  ■入江又七郎は「入江次郎太郎(東南4-18)」の7代・又七郎(孫之丞)である。
   上の家紋は非常に珍しく正式名称は知りえない。下は「丸に抱き角丸」
   「肥陽諸士鑑」には「隅切り角に引両」と「丸に抱き角丸」が紹介されている。

  ■入江弥喜多は「入江林九郎(東南4-19)家」の5代である。「次郎太郎家」の分家筋で家紋も同様である。
   「肥陽諸士鑑」についても「次郎太郎家」と同じである。

 

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■診断書「病名 脳神経衰弱」

2019-05-06 06:38:47 | 俳句

 自分史を書き進める中で、初代の兄・磯部長五郎が三齋公に殉死した蓑田又七の介錯役を勤めたことに触れなければならなくなった。
森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」にも登場しているので鴎外のことを少々勉強している。
その鴎外に次の句が残されていることを知った。

            濁されたあともしみづは清水かな 

 「濁されたあと」というのが曰くありげで調べてみると、思いがけない話に遭遇した。
これは北里柴三郎が設立した伝染病研究所が、大正3年10月それまでの内務省書簡から、文部省所管の東京帝国大学に移ることが国会で決定した際、所長職を勤めていた北里が退職したことを知っての鴎外の句であるという。

辞表の常套句は現在では「一身上の理由」という一言で済まされるが、当時はそうはいかず医師の診断書を要したのだそうな。
柴三郎は知り合いの医師でもあろうか、診断書を取得して提出したようだが、これには「病名 脳神経衰弱 時々亢進発作あり、当分の静養を要す」とされていたという。
作文であろうことは容易に理解できるが、これで良しとするお役所の形式主義の最たるものである。
鴎外の句がそのまま柴三郎の心情を表しているように思える。「濁された」という五文字には怒りにも似た鴎外の感情がうかがえるが・・・

 ところで夏目漱石も同様で、辞表(退職願?)には診断書を添えたそうだが、こちらは「神経衰弱」、これは案外当たりかもしれない??
我が郷土の柴三郎先生は今般新1,000札に登場なさるが、熊本ゆかりの漱石先生はすでに登場された。鴎外先生はまだであるが・・・

 

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