以下の三人が享和元年11月、経済政策の失敗(?)を糾弾され免職、閉門・蟄居を仰付けられた。
「熊本藩年表稿」には次の様な記載がある。
享和元年(1801)11月18日、中老兼大奉行・遠坂関内を免職し閉門蟄居せしむ。
中老堀丹右衛勝文を家老に任ず(交代人事)
11月19日、奉行松下久兵衛に大奉行助勤を命ず(交代人事)
11月21日、大目付郡夷則を中老に任ず(交代人事)
11月29日、遠坂関内退役触状
是月、留守居大頭津川平左衛門の職務を免じ閉門させる。(大目付とも)
享和3年(1803)9月14日、奉行入江十郎大夫に蟄居を命ずる
文化13年(1816)11月3日、藩主齊樹帰国し滞在中遠坂列三人へ目見えを許す
文政2年(1818)8月、是月元中老遠坂関内、元大目付津川平左衛門、元奉行入江十郎大夫の罪を許さる。
■中老兼大奉行
・遠坂関内
遠坂関内(南東10-1)家、9代 三郎次・玄房(養子 実・熊谷才右衛門二男 後・関内)1,000石
天明六年四月~天明八年八月 奉行副役
天明八年八月~寛政四年七月 奉行
寛政四年七月~享和元年十一月 大奉行
寛政六年一月~享和元年十一月 中老
享和元年十一月思召之旨被為在、御役被差徐閉門被仰付、同二年三月蟄居被仰付
遠坂楽翁 名は玄房、一名義、字は子方、関内と称し、晩に楽翁と号す。十八歳にして時習館訓導となり、後奉行副役、
奉行を経て中老兼大奉行となる。世禄千石。後蟄居を命ぜらる。文政二年二月十一日没す。年六十五。墓は泰陽寺。
■大目付
・津川平左衛門
津川平左衛門(南東25-1)家 8代 八郎五郎・辰昭(平左衛門)1,600石
安永五年正月跡目、千六百石、用人、大目付 享保元年十一月閉門
享和二年三月蟄居
天明八年八月~寛政六年八月 用人
寛政六年八月~寛政九年十一月 大御目付
寛政九年十一月~享和元年十一月(被差除・閉門)御留守居大頭
津川平左衛門 名は辰昭、藩に仕へ大監察となる。文政二年八月没す。
■奉行
・入江十郎大夫
入江傳十郎(東南4-20)家、8代 十郎大夫 300石
寛政五年二月~同十年十月 奉行副役・後江戸留守居二転
寛政十二年七月~享和二年九月 奉行(被差除)
御知行被召上候 享和二年九月十四日高三百石四合壱勺六才 十郎大夫・純次
入江素川 名は景福、十郎大夫と称す。頗る才気あり、藩に仕へ奉行副役を経て奉行となる。天保六年二月九日歿す。年七十九。
これは三卿家老と大奉行・堀平太左衛門の確執が起因しているようだが、晩年の平太左衛門の人事構想が崩れ去ったものである。
罪に復した時期は三人夫々異なるようだが、罪を許されたのは同じ時期である。遠坂関内は実に17年弱を要している。
「遠坂関内折角抜群に召仕はれ候へども、一向御委任は遊されず候故、関内も諸事任心底不申事のみ有之抔、下方にて申合申候、且又先年清左衛門書附の内三家衆の威を、平太左衛門奪候様致候段相見申候に付、其以後は自然と三家にも其の覚悟有之、関内身分に取候ては、別て差切、諸事取計悪儀有之共にては無御座候哉と考申候」と残疑物語に書き残されている。
蟄居期間中の三人のそれぞれの過ごし方も紹介されているが、大変興味深いものである。
遠坂関内は生涯蟄居の慎みを失わなかったという。生前藩主への御目見えは許されたが、正式なお許しを聞かないまま死去した。
遠坂家は丹後以来の家、初代助左衛門は田邊城に籠城した。三代・孫九郎は光尚公に殉死した。
津川平左衛門は足利将軍家の血筋である。蟄居中妾腹に男子二人が生まれた。長沼喜左衛門(表向き・津川平内子)と津川又彦である。
津川又彦は後に神護寺の坊主となったが、相良寺の坊主を殺しお仕置きとなっている。
入江十郎太夫は蟄居中に貨殖して大富裕となった。「子の代遊興に費やして至貧となり家を売り在宅せしとなり」とある。
入江家も丹後以来の家、初代は遠坂家同様田辺城に籠城した淡路である。
蟄居とは「武士に科した刑罰の一。自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させたもの。」と定義されるが、金貸しや子作りは埒外のものであるようだ。