津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む-インターナショナル新書「三河吉田藩・お国入り道中記」

2019-05-11 18:05:41 | 自分史

著:久住祐一郎 出版社:集英社インターナショナル 発行年月:2019å¹´04月 シリーズ名等:インター... 

 世の中には不思議なご縁がある。
実は平成24年の暮れに、「大嶋家文書研究会」が発刊された「大嶋家文書の世界」という本を御恵贈いただいた。
この本は「若様道中記」と「たみ縁組」という二本仕立てになっているのだが、「たみ縁組」の内容は細川家家臣・高田祐之進に吉田藩・松平伊豆守の家臣・大嶋氏の娘・たみが嫁ぐに当たっての記録である。
当時、細川家家臣・高田祐之進についてお尋ねがあったが、先祖附が所在しなかったが、できる限りの史料をお送りした。
その後、見事に上梓されご寄贈いただいたという次第である。

 今般の久住祐一郎氏の著書「三河吉田藩・お国入り道中記」に関する「紀伊国屋書店」の内容説明を眺めているうちに、これは「大嶋家文書の世界」に取り上げられていた「若殿道中記」そのものではないかと直感した。
この記録者は大嶋左源太とあるから間違いない。何という奇遇であろうか。
大嶋家には相当量の古文書が残されているようで、豊橋美術館と連携を進めたいという事が編集後記にかかれていた。
著者はまさにその豊橋美術館の学芸員で在られるという。

「大嶋家文書の世界」において「若殿道中記」は、読み下しに主力を置かれていた。
今般の出版は、内容をよく検討の上、下記のような内容になっているようだ。早速注文したところだが、到着が待ち遠しい。
こんな資料に出会いたいものだとつくづく羨ましく思う。

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内容説明

天保一二(一八四一)年、三河吉田藩(豊橋)の参勤交代の行列が江戸を出発した。藩主の代わりを務める若殿・松平信宝、初のお国入りである。しかし、出発までには数々の難題が待ち受けていた。決まらない日程、ダブルブッキング、馬に乗れない老家臣、幕府の規定人数オーバー、息子の行列を豪華にしたい藩主の親心と財政難…。藩の目付役が書き残した詳細な記録を繙き、吉田藩士たちの奮闘ぶりから働く武士のリアルな姿を浮かび上がらせる。

著者等紹介

久住祐一郎[クスミユウイチロウ] 
豊橋市美術博物館学芸員。1984年、新潟県生まれ。岡山大学教育学部卒業。同大学院社会文化科学研究科博士前期課程修了。
豊橋市二川宿本陣資料館学芸員を経て、現職。交通史学会常任委員

磯田道史氏推薦! 
「三河吉田藩の若殿様が参勤交代をした時の詳細な記録が発見された。この古文書をもとに参勤交代の驚くべき実情が明らかにされる」 

――(本書「はじめに」より) 
江戸時代に何万回と繰り返された参勤交代のうちのたった一回に焦点をあて、残された古文書を読み解いていくことでその実態を紹介しようという、きわめてミクロな視点の本である。
しかし、ミクロな視点だからこそ見えてくるもの、知ることができるものも多い。電話やインターネットのような通信手段のない江戸時代で、何百人もの宿泊場所をどうやって予約していたのか。
道中で発生した様々なアクシデントにはどのように対処していたのか。全国各地で日常的に繰り広げられていたが、現代の私たちにとっては知らないことだらけの参勤交代の実態が浮かび上がってくる。 

――(目次より抜粋) 
第1章 若殿と左源太 
  大嶋左源太豊陳/〝若殿〞松平信宝/山椒は小粒でも辛い/松平伊豆守家と「島原」 
第2章 参勤交代アレンジメント 
  殿様は〝タンキ〞/若殿のお国入り/「御意」を示す殿様と行列人数/左源太登場/先例と現実の間で/道中法度を叩き込め/宿のご予約はお
  早めに/吉田藩にもあった『超高速!参勤交代』 
第3章 〝サンキュー〞におまかせ 
  派遣で成り立つ大名行列/〝サンキュー〞とは何者か/島原御陣200年記念式典/専属契約の秘訣/山々安全、川々大水 
第4章 必読!参勤交代マニュアル 
  荷物は馬に積んで逃げよ!/川札の値下げ交渉/宿割役人VS旅籠屋/宿割役人はつらいよ/旅費節約のしわ寄せは御供に/紛失物は金で解決?/
  お供のアクシデント/殿様の一大事
第5章 若殿様のお国入り道中 
第6章 その後の三河吉田藩と大嶋家 


 
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■八代御城附衆(1)

2019-05-11 13:07:30 | 史料

            
 正保二年十二月二日細川三齋公が亡くなると、光尚はいわゆる「三齋隠居領」の解体を目論む。
三齋の養女・お三(佐舞・初代宇土藩主立孝室)や側室などに対して城からの退去を求め、「小川の御茶屋」に移徏せしめた。城内にいた士も同様である。
「三齋御附衆」たちは、本藩への帰属や後の宇土支藩への移動、又忠興公一代限りの御奉公として八代を離れ離国を希望するものするものなど、それぞれが将来の進路を模索して混乱を極めた。
光尚は幕府に対しても十分な工作をなし「三齋隠居領」の解体の了解を取り付けると、立孝を宇土へ移して宇土細川藩を創家させる。
一方、八代城は一国一城令の例外となり、南の強国・薩摩藩の監視という意味合いをもつ御城であることから、筆頭家老・松井興長をもって城代と決定した。
光尚はこの人事についても隠密裏にことを運んでいる。興長に対し事前の相談をしなかってことに対して詫びている。
又、熊本から家士68名を「八代御附衆」として派遣している。
これは、松井家30,000石の軍役のみでは対処できないであろうとの配慮であり、これはその後変わることなく続けられていくことになる。
68人は正保3年10月28付で家老衆に対し「誓詞」を上げている。

         浅山太兵衛    浅山勘三郎    沢田九右衛門   沢田九十郎    堀田彦丞
         水野喜三郎    内藤正大夫    狩野四兵衛    寺川三郎ヱ門   水野伝右衛門
         川崎三郎大夫   飯田勘五郎    沢村権十郎    永屋正五郎    岩崎伝十郎
         和田清大夫    飯田安兵衛    魚住久大夫    菅村兵右衛門   金津十次郎
         大石新右衛門   大石佐左衛門   真野九兵衛    真野作兵衛    吉田加左衛門
         吉田市左衛門   岡本吉左衛門   岡本佐兵衛    富田八郎左ヱ門  富田勘五郎
         安富十右衛門   安富孫作     柳瀬茂左衛門   柳瀬九十郎    荻 杢之允
         河嶋金十郎    佐野次兵衛    友成少兵衛    蒲池九兵衛    乃生太郎右衛門
         乃生平兵衛    森部又丞     森部三太夫    加々山与左衛門  加々山亀之助
         小嶋権兵衛    小嶋半四郎    高浜茂兵衛    高原左内     両良藤内兵衛
         恵良三十郎    天草十大夫    天草文右衛門   大塩藤右衛門   大塩少次郎    
         土佐藤太郎    河崎又大夫    飯田源兵衛    荻 忠右衛門   内藤善左衛門   
         内藤弥源太    上津浦彦右衛門  上津浦太兵衛   佐野藤兵衛    佐野平七     
         福田次郎右ヱ門  立石市兵衛    立石助右衛門     「熊本県史料 近世篇三」

以下、「真源院様御代御侍帳」「寛文四年六月御侍帳」「元禄初比カ 御侍帳」等に同様の記載があるので順次ご紹介する。
又、「肥陽諸士鑑」は詳しい役職名が記載されているので、ここから「八代御城付」とある方々を選び出す作業行っている。
終了し次第此れもお届けする。
のちには40名余ほどに人数が絞られているようである。上記68名の知行高合計がどのくらいなのか興味あるところである。

松井家およびその家臣と、本藩から派遣されてきた「八代御城附衆」との関係は、必ずしも良好ではなかったようで、トラブルも報告されている。
             

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