侍帳「真源院様御代御侍名附」は忠利公の殉死者の跡式の跡の記述があることから、承応年間のものだとされている。
ここでの御城附衆は「八代与力衆」と名付けられている。立石市兵衛と岩越惣右衛門が御番頭であろう。
三齋公在世の時代は八代領は75,000石であった。
光尚は松井家を八代城代となしたが、松井家30,000石のみの軍役では不足すると考えこれら47名を与力としたのである。
しかしながら三齋公死去後は(1)でご紹介したように68名であったから、随分と人数が減少している。
47人の知行の合計は11,300石であり、松井家に+しても41,300石であり三齋公時代に比べるとまだ少ない。
これ以降も御城附衆(与力衆)の人数やその知行高は大きく変化することはない。次回以降またご紹介する。