津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■福岡県史・近世篇「細川小倉藩」ご紹介のその前に

2019-05-25 10:14:38 | 細川小倉藩

 昨日■福岡県史・近世篇「細川小倉藩」に挑むを書いたが、その前にほかの史料があることに気づいた。
同じ小倉藩のにおける「元和七年 御印帳」という、忠利公の裁可文書をまとめたものである。1990年熊本大学史料叢書として発刊されている。
ただし、その後続いて発刊されているのか不明である。(されていないのではないか・・・)

これは「細川小倉藩」の史料よりも、時代的に先行するものだから、これを先にご紹介するのが筋であろうと考えた。
41頁に及ぶものだが、頭注はあるが特段の説明は為されていない。
これからスタートしていきたいと思っている。

    元和七年
   御  印  帳
    六月廿一日


       |     六月廿五日
       | 一、佐藤少三郎・田辺彦介京へ可被差上旨被仰出候、則申付候事 ●(忠利公朱印以下同)
       | 一、右少三郎・彦助京にて宿賃被遣儀申渡候事 
       |     (佐藤) (真下)           (松井興長)(小笠原長元)(阿部主殿助)
惣銀の請取  | 一、惣銀才三郎・七兵衛請取候へと申渡事、付式部・民部普請者主殿を加、御印を取銀子可
       |   相渡御意之事 
金銀米遣方加 | 一、金銀米御遣方之加判之者仕候へと、被仰出、承事 
半役     |   付五人之内二人かけ候分者加判仕不苦由御意之事
       | 一、大田八郎右衛門尉事、御番之儀幷御知行百石御たし被成可被下御意之事 
       |     
       |     六月廿六日
       | 一、七介所此中番仕候早藤源右衛門尉妻子引越御番可仕御意之事 ●      七介→清田石見か
       | 一、田辺彦介当暮ゟ如本御切米可被遣事 
       |          (細川忠興、剃髪シテ三齋宗立ト号ス、忠利ノ父)
       | 一、御舟頭かしら為両人宗立様御船請取可申事 
加子三百人召 | 一、加子三百人かゝへ可申由御意之事 
抱え     |
       |
       |     六月廿八日
高月口番人  | 一、高月口之御番上林甚介ニ和斎弥左衛門尉をくわへ、御鉄炮之者三拾人、掃除之者拾人、合
       |   四拾人かゝへ、今安跡之役可仕之事 

       |                   (菜園場)
       | 一、平二郎ニ荒仕子五人・牛壱疋相そへ御さゑんはへ遣事、但五人之内壱人ハ御さゑんはニ残
       |   申荒仕子あり、〆四人かゝへ可申事 ● 
       
       |     六月廿九日
総構出入手判 | 一、御郡奉行惣かまへ出入手判なしニ出入可仕事 
       | 一、甚斎むすこ市兵衛・同よめ鉄の御門出入可仕事 ●             甚斎→生源寺大炊之介   
       | 一、鈴木助太郎ニ六人扶持被遣事 
       |
       |     六月晦日
       | 一、荷つゝみ道具、御納戸奉行森作兵衛・深野左助・安田甚九郎此三人ニ被成御預候事 
鉄の御門番  | 一、長右衛門尉・源介・惣五郎鉄の御門番被仰付候事 
畳奉行    | 一、御畳奉行末村九右衛門・松村源六兵衛被仰付候事 
       | 一、惣かまへのかや此前のことく御小人・御中間・御乗物かき被下候事
       |                            (忠利裁可書入・自筆)
       |                            「三齋様之時之ことく」 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御名を憚り改名す

2019-05-25 06:09:16 | 木下韡村日記

 木下宇太郎は江戸在勤中は藩主齊護および世子・慶前の侍読を勤めている。
その慶前はわずか22歳という若さで、嘉永元年4月14日江戸で死去した。
慶前は父・齊護がまだ宇土藩主であった頃の子で、少々時間を要したが嫡子と認められて本家に入っている。
その跡に三人の姫が誕生しており、男子は天保六年(1835)に10歳違いの後の韶邦が誕生した。

嘉永四年(1851)十月六日の「木下韡村日記」に次の記録がある。
       若殿様先月(九月)十八日 御登城、御前御元服、御一字御拝領、
       慶順様と奉稱、従五位下御任官、 右京大夫様と奉唱候御到来有之

その年の十二月十三日の日記には宇土郎と息・宇十郎が改名の届を出している。

        ■御内意之覚  半紙折懸
       私儀今度
       若殿様御名之唱奉憚、木下真太郎と改名仕度奉存候、此段可□様
       奉頼候、以上
              月     姓名

       差出  中折々懸
       私儀、木下真太郎と改名仕度奉願候、以上
        嘉永四年十二月   木下宇太郎 〔花押〕
          佐田吉左衛門殿
          真野源之助 殿
          上野 十平 殿

        ■口上之覚 半紙折懸
       私忰木下宇十郎儀
       若殿様御名之唱奉憚、木下信
       十郎と改名仕可申候、此段御達仕
       候、以上
              月     姓名

 ここで合点がいかぬのが「宇」という文字が、御名を憚っているので「真」の字に替えるというのだが、ここでいう若殿様は当然の事ながら、慶順のことである。
この時期に替えようというのだから、今回の慶順の名乗に「宇」という文字が入っていると理解するのが順当だが、どう調べても見当たらない。
よくよく文章を見ていると「唱奉憚」(唱えをはばかりたてまつり)とあり、「宇」という字ではなく「う」という読みを憚ったのではないかと思い至った。
慶順は10月6日の記事にもあるように「右京大夫」という名を頂戴している。「右=う」である。
これで一件落着としたいところだが、こんなことが有るのだろうか? 正解かどうかはよくわからない。

ここで宇太郎は真太郎と改名するのだが、この時期御年47歳である。そして時習館に於いては訓導本役についている。
御名を憚り改名という事は諸家の先祖付けの中でもよく見受けられるが、それはほとんどが「文字が同じ」だからという理由が多い。
少々納得がいかないところだが、これ以上の深堀りはやめておこう。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする