津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■侍帳の時代巾からくる矛盾

2019-05-16 09:32:38 | 歴史

 細川家の侍帳は刊本としては「肥後細川家侍帳(一)(二)(三)(四)」と、これを増補改訂した合本というべき「熊本藩侍帳集成」がある。
前者は1977~1979代に、後者は1996年に発刊された。

いずれも、細川藩政史研究会が発行したもので、編者は熊本大学教授(当時)松本寿三郎氏である。
この二種類の侍帳では内容に於いて差異が認められる。以前「二つの侍帳の違い」でご紹介したとおりである。

唯一小倉藩時代のものが「妙解院殿忠利公於豊前小倉 御侍帳幷軽輩末々共ニ」というものであり、大変貴重である。
この筆者は「真野景正」という人物だが、人物の特定ができないし、又その成立年もよくわからない。
その書き込みには「或慶長九年、元和七年春ヨリ寛永九年十二月九日迄之間、但 寛永元年以来前之名付ナルベシ 尤長岡勘解由 寛永元年八月卒去」とあり時代巾がすごくあることが判る。

 ある論考を見ていたら、忠利代の各郡の郡奉行の一覧が「第7表・郡奉行一覧」p773に(*1)が示してあり、元和元年のものだと記されている。
その根拠は「豊前小倉御侍帳」だとしている。
「妙解院殿忠利公於豊前小倉 御侍帳幷軽輩末々共ニ」をみると、p9に「留守居組」の中に各郡の郡奉行15人の名前が記されており、先の表(*1)の役職の人数・名前共全く同じである。
処が、一部の人は福岡県史料・近世史編「小倉細川藩」(一巻)p113によると、寛永三年五月四日に新任された方々であることが判る。
(頭注 :諸御郡奉行)田川郡・林與兵衛、京都中津郡・佐方少左衛門、同上・宮部久三郎、築城上毛郡・沢少兵衛、宇佐郡・吉川九大夫、同上・上村甚五左衛門、国東軍・小林半左衛門、此六人也(人数については錯誤あり)

つまり表(*1)を元和元年と特定されていることには疑義が生じることになる。元和元年とされた根拠が別にあるのだろうか。
「妙解院殿忠利公於豊前小倉 御侍帳幷軽輩末々共ニ」は、慶長九年(1604)~寛永九年(1632)の間のものだとすると、28年という長いスパンの中の記録である。論考の矛盾を大いに感じている。

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■八代御城附衆(5・了)

2019-05-16 05:45:21 | 史料

 侍帳の中でも「肥陽諸士鑑」は各家の当時の当主に至る代々の名前や、当主の役職・住所・知行地とその禄高等が詳しく記されていて秀逸である。
成立は宝永五年(1708・細川重賢代)頃だとされている。
八代御城附衆については、これら個人の記録の中に役職として「八代御城付」と記されている。
「肥陽諸士鑑」(一~五巻)から、それら個人の名前と禄高を抜き出してみた。

    肥陽諸士鑑(一)
       入江文大夫    150石
       飯田庄右衛門   150石
       伊藤孫兵衛    150石
       石本十介     200石」
       岩崎太郎兵衛   100石(御郡奉行)
       井口庄左衛門   200石
       速水杢之助    300石
       西村半大夫    200石
       遠坂助次郎   1,000石(御物奉行・八代御番頭・大組附御鉄炮頭)
       大塚吉之允    200石
       荻 四郎左衛門  250石        小計 2,900石

    肥陽諸士鑑(二)
             和田次太夫    300石
       上月兎毛    1,000石(八代御番頭)
       河田九兵衛    200石
       吉田加右衛門   272石5斗
       多田七右衛門   150石
       高見権右衛門  1,000石(八代御番頭)
       竹村治兵衛    200石
       高橋吉左衛門   300石
       高山八右衛門   150石        小計 2,987石5斗

    肥陽諸士鑑(三)
       夏間弥次右衛門  150石
       永松平之允    200石
       内藤庄大夫    200石
       魚住市郎右衛門  200石
       野村牛右衛門   100石
       国友伊角     150石        小計 1,000石

    肥陽諸士鑑(四)
       山内九大夫    300石
       矢野市兵衛    300石
       安場五大夫    150石
       牧野安之允    200石
       深野九郎左衛門  300石
       小林半右衛門   250石
       小林勘助     150石
       小堀源助     200石(佐敷詰)
       寺尾市郎左衛門  200石
       寺内五兵衛    150石
       安東武平次    200石
       麻生九郎次    150石
       沢村五左衛門   150石
       財津角大夫    200石1斗余
       沢田九右衛門   150石        小計 3,050石1斗

    肥陽諸士鑑(五)
       宮本伝右衛門   200石(組脇)
       白井岡右衛門   300石
       首藤次郎左衛門  150石
       志賀庄兵衛    250石
       尾藤九郎兵衛   150石
       東 尉右衛門   200石
       東 弥十郎    150石        小計 1,400石      

                           合計 11,337石6斗

 これ以降、侍帳にこういう形で「八代御城附衆」の一覧の記載は見られない。
明治に至る迄続いたのであろうが、それぞれのお宅の「先祖附」で確認するほかないのか?
八代城代である松井家と、藩から派遣された「御城附衆」の間では確執もあったようで、藩庁もその収拾に手を焼きうやむやの内に終わっている。
それは文化14年から文政3年迄の間に両者の間にあった争いで、「八代御城附疑惑一件」という記録が熊本県立図書館に残されている。
「上妻文庫89」に上妻先生の書写本が残されているが166頁に及ぶ大部である。内容に大いに興味があるのだが、その量の膨大さに少々腰が引けている。
その他「疑惑ニ而八代御城附御番頭上月志水両氏ヨリ御城代松井氏ニ窺一件書附」などという古文書も存在する。
これは通常「八代妙見社祭礼之節御名代一件・他1件」と呼ばれているもので、寛政二年柴平教康という人物が著した25丁に及ぶ記録である。
いずれいつの日かゆっくり拝見しようと思っている。

 

 

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