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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

米田家臣中山宗俊覚書 (二)

2009-05-30 18:11:56 | 歴史
一 明智日向守殿謀反之刻忠興公御前様丹後國山中に御送被遊候
  儀ハ天正十年夏信長公信忠公御父子様御上洛忠興公備中
  國高松城為御加勢被成筈にて御用意調候上信長公御
  
  父子様御上洛を被聞召米田壱岐守者佐久間甚九郎御勘気
  御許有て今度信長様へ可為御供旨求政へ御密用被仰付
  五月末丹後より上洛仕求政は京今出川相國寺門前の屋敷に
  着仕の処に六月二日の大騒動なり此時求政は次田ィ男藤十郎私云後与左衛門
   貞正于今十二歳
相國寺塔中唯長老に入学の兼約有て幸と召連
  罷登居候又早田道鬼齊と云武功の牢人を育置是も同道にて相登
  り候道鬼齊ハ上方にも無隠大達者ものなり信長公御父子様御自害
  の時丹後への注進に則道鬼斎を申付差下候口上ハ今度の大変永禄
  八年以来の今日にて御座候御高恩の信長公の御事に御座候間讐

  を被報度可被思召候得共御勢微にして御一身乃働に不成事に候
  第一敵味方ともに不分明世中に候求政とくと様子を伺一両日
  中に帰国可仕候夫迄は下への御出勢を被止御蟄居可然旨注進
  仕候右道鬼齊十六里の道を三時余りに駆付候此時之儀丹後に
  て注進之有之候得共求政カ注進より先に風聞も無之由候藤
  孝様御父子様御前にて米田助左衛門御用に付罷出申候此注進を
  被聞召御父子暫時無御云葉御憾慟御悌泣無限御様子に■
  良久敷して忠興様被仰候ハ如此成悪逆無道不仁者に縁を組て
  の人の舌頭に懸る事無是非被思召候由御述懐至極被遊候是

  政も共に忙然たり是政申上候ハ光秀の悪逆無道前以察知す
  へき様なし光秀の常道時の御縁結なれハ無力事にて候自己
  の道を守るより外無他儀と申候忠興公御意にて不仁者の子
  なれハ内室にハ難成候然共日本に身を可拠所もなく独身者
  なり如何可被成哉と御意なり是政申上候ハ我妻ハ光秀妻女の
  兄弟也藤孝様御夫婦様被聘て嫁申候私以御同意にて候先私
  領之内山谷中三戸屋に有徳成山伏あり功者ものにて候此山伏
  宅に暫蟄居可然と申上る藤孝様も可然と被仰此儀決定し
  河喜多五郎右衛門後石見明智家より附参候勇の者なり其外一両■是政の妻女并
  是政の家老木崎大炊助夫婦小川権六 小川権六と云ハ是政妻女の親族なり佐々木家の  
   末葉武功の者也 / 又木崎大炊助も隠なき武勇の誉れある者也大炊助死後に妻女ハ  山姥の名得たる奇怪の女也 
   後ハ山に入二度行方不知也 大炊助男木崎縫殿介と云者ハ一色義有御討果の時真下
   梶之助宮津を切抜一宮居城弓の木へ一騎歸候に米田助右衛門鈴峠にて出合助右衛門馬上より 
   梶之助を鑓にて突倒候縫殿助真下の首を取に懸候処を真下突伏られるなり鑓の
   柄をたくりより木崎の膝頭をわり付候去とも真下は首を取手拭にて膝頭を巻馬
   上にて弓木に駆付先城中の水の手を一番に取切人を付置大手へ廻り笠を出
   し城中を招き人数の命を助可申と和を入一色後室御男子を無恙請取申候其
   後縫殿介を忠興公御仕立被成有馬の湯に疵為養生被遣無程平愈夫より直に智音あつて
   堺へ来り塩風呂へ入疵の口より血出堺にて果候縫殿介の男木崎牛之助と申者ハ豊前にて監物是
   季御當家を退候時分京迄跡をしたひ上京して監物へ暇乞仕罷下候監物様置候家臣
   共不残御直ニ被召出先知被下候牛之助も被召出筈之処相家老塩木左助と云もの讒言申上牛
   之助不被召出候此左助後入道仕浄林と申候北の丸御番被仰付置候を御堀を越石垣を傳
   ひ上り御櫓に乗込浄林を討果し申候御城内に忍入候罪によりて虎責に被仰付虎の
   首に抱き付虎を扑殺す後に牛割に被仰付候強力世に隠なき事也
 等を御
  附山中に被送山伏宅に蟄居なり其後秀吉公の依命て再会前々の

  ことく御成候慶長五年石田三成謀反の時関東出勢の諸将の妻子
  を大坂城中に取込申由に付忠興様御留守を守る者共の内小笠原
  正斎秀林院様へ御添キ被成也御供可仕旨申上候へは曽て無御承引
  亡父天魔の所為にや不思議に天下に悪名を残し候事無是非候事也
  我女なから可死すをのかれ落人と成忠興公へ對面すへき様なし正斎介錯
  仕れ石見死骸を隠し家に火を懸よとの御意なり石見御尤至極死
  出三途の御供可仕と申上候其時助左衛門是政の妻女の妹おしもと申婦人
  附居申候此女ハ江州和泉の城主入江兵衛尉と申者の妻女也兵衛尉今入江傳左衛門祖   
   父仁左衛門と申者の父なり
山崎合戦ニ討死後家と成由緒を以今秀林院様へ

  来居申候其まヽ死用意をして罷出候処に秀林院様被仰候ハ此有様を
  誰か忠興公其外子共へ傳へ聞を可申者もなく候現世後世迄の厚恩
  に思召候旨此遺言夫々の形見忠興公其外与一郎忠隆与五郎興秋光
  千代忠利後内記又改越中守私云御系図ニハ御幼名阿光とあり無恙帰陣の上津ふさに傳候ハゝ如何
  計なる安堵にて可有之候と偏に頼思召の由にて無是非御形見の品を
  御遺書を請取に形をかへ忍ひ出頓て御帰陳の上御遺戒のことく
  申届候御自害の説色々申すなし候おしもより外に慥成訳知ハ無之候天下に貞女の御   
  名を残され香敷佳名を止られたる也憾慟々々
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