ご存じ、細川家に預けられた赤穂義士の切腹之図である。右は赤星閑意が描いたものだが微妙に違う。その他にもいろいろ伝えられているが
(参考図 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_01955/chi04_01955.pdf)ベースは同じものであろう。
吉良邸討ち入り以来細川家に留め置かれた17人が、2月4日細川家白銀邸において切腹することと成る。
白い幕で囲まれた場所には今まさに切腹しようとする大石内蔵助と、介錯役の安場一平の姿がある。
左手の「大書院」入側の屏風に囲まれたところに、上使の荒木十右衛門(下)と久永内記(上)の姿がある。
縁側には幕府の関係者が列座し、庭には同じく幕府関係者と共に、細川家の関係者(上から)右田才助、留守居の勾坂平兵衛・堀内平内、小姓頭・平野九郎右衛門が居並んでいる。大石内蔵助の上部塀越しに見えるのが、新組之組脇の吉弘加右衛門、左手に五人の御番衆が列座、一番右手くぐり門の屋根越しに見えているのが、吉弘と同役の八木市大夫である。この二人は「御預人用聞挨拶」役を務めており、使番の堀内傳右衛門らとともに17名の人々と特に接していたものと思われる。右手上に順番を待つ16名の同志の姿が見える。文字の書き込みがあり「役者之御間」とあるが、実際はこのような間取りではない。実際には間に能舞台があり、相当デフォルメされて描かれている。
昨日ご紹介した白金邸の図面を見ていただくとこの絵図との相違がよく判るだろう。
下の図は「御預人記録」に附されているものである。
これによると幕府上使の上方に見える二人が、右手が坂崎忠左衛門、左手が三宅藤兵衛、その後ろ宮村團之進・鎌田権之允の名前が記されているが、上記絵図においては異同がある。
これらの絵図はこの場に臨んだ右田才助が書き記したものがベースであるらしい。
2008年東洋大学の名誉教授・大野瑞男氏が、日本歴史(吉川弘文館)12月号で「大石内蔵助ら切腹の図の進出」として一文を懸れている中で、ご自身の所蔵になる右田才助自身の筆となる絵図を公開された。まさに真実はここにあるように思える。
絵図は次回にご紹介する。
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