津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

異体字をさがす

2012-09-19 10:47:27 | 徒然

 ある文書を読んでいたら、1ミリにも満たない小さな文字での書き込みがあり、その一文字がどうやら異体字であろうと思われるのだが、確信に至らない。
前後の文章からしても推測できず、また字そのものがよく判読できず難儀している。
東大史料編纂所に「異体字同定一覧」というデータベースがある。1083文字が登録してあるのだが、なかなか見つけるのが大変である。
                http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/itaiji_list.jsp

それにしてもこのデータベース、「 確認日:2012年9月19日」とある。今日ではないか・・・・今日新たに文字が増えたということか?

又、島根県立大学の「e漢字-島根県立大学」 http://ekanji.u-shimane.ac.jp/ も探してが見つからない。
これはもう私の得意とする■で埋めるしかない、というのが結論に成りそうである。 

 

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清正公さんを歩く

2012-09-18 21:06:38 | 熊本

                       毎朝4キロ散歩を休んでいますが、是はぜひ参加しようと思っています。全長何キロありますかね~

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木鉄炮とか火縄とか

2012-09-18 07:16:53 | 史料

  嶋原一揆に関するトピックである。

 寛永十五年二月十六日忠利は曾我古祐に当てた書状で「木鉄炮」を準備することを伝えている。(4001)

      三ノ丸を取 二ノ丸ニ成候ハゝ 長崎より唐人木鉄炮を誘参候 筒口差渡二尺五寸御座候故
      玉のおもさ七十五人にて持申候玉ヲ二ツこめ 又やくわんほとの玉ヲ廿五人 薬貮千五百斤
      込 城ノかたへ土井ニ穴を掘込 筒尻を地底ニあて縄ヲ永仕 十四五町ものき 火の渡り候加
      減ニ仕候ヘハ 本丸二ノ丸かけて海へはねこかし可申由ニ御座候 うしろへも城の石かきな
      と散可申候間 如何様はる/\のき不申候てハ不成由申候 か様の物を 本丸二ノ丸へさく
      を付候以後可有御申付ニ候事

   木鉄炮については「南海治乱記」に、豫州河野家で作られたことが記載されているらしい。
              http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5440.html
              http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950645

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、決戦の日となる二月廿七日の森可成宛(忠利)書状(4067)では、火縄の話が出てくる。多忙なさなかのこととて、返事は素っ気無いがこんな配慮は大変ありがたかったと思われる。

       森可春   津川辰珍
      森采女より四郎右衛門迄之状并火縄百送給候 遠路飛脚御懇志不浅候通 被成御返書候

 

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memo 西山左京消息

2012-09-17 18:00:49 | memo

 (寛永十五年)三月十五日眞田信之宛(忠利)書状(4235)
       この書状之尚々書が今回のメイン・・・・

       尚々 西山左京(至之)殿儀 大坂ニ置候へ共なじミ不申候へハ無紛事と存
      我等國へ申入 心安御有付候様ニ支度 右之仕合ニ候 以上

 西山左京とは足利道鑑の息である。 「大坂ニ置候へ共なじミ不申候へハ・・」という状況は一体どういうものであったのだろうか。
忠利は此の時期、有馬一揆が終結しその後始末に忙殺されている。そんな中での道鑑息のことを心配している。そして此の年左京は細川家の扶持を
得ることになる。ちょっと興味をそそられる内容ではある。 

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津川近利・辰珍・近元etc消息

2012-09-17 11:06:03 | 史料

細川家史料において、斯波氏武衛家最後の当主・津川近利(義近、初・斯波義銀、号・休閑)についての消息はあまり見受けられない。
別の史料から以前 津川近利のこと で若干触れた。
大日本近世史料・細川家史料においては、寛永十五年の嶋原一揆の前後に忠利が発した書状が二通見える。

   ■寛永十五年二月十六日津川近利宛書状(4008)
         内容については割愛するが陣中見舞いに対する返礼の書状である。
         戦況がわりと詳しく書かれており、この時期の状況を知るのに有効である。

   ■寛永十五年三月十四日津川近利宛書状(4217)
         こちらは一揆終結後の書状で、弟辰珍のことなどにも触れている。

      如仰有馬一揆早々討取埒明申ニ付而 いつれも歸國仕候 隠岐殿(松平定行)より御使者を被下
      忝儀共ニ候 御心得候て可被下候 四郎右(辰珍)も今度首尾能候つる間 可御心安候 恐惶謹言
             三月十四日

             津川休閑様
                   御報 

 寛永七年すでに弟・辰珍が細川家に召し出されている。その弟の安否を近利が気遣ったのであろう事に応えている。
この戦において辰珍は忠利の傍に在ったらしく多くの書状を受けている。その状況が忠利の礼状によってわかる。
     (4007)神田入庵・河内、(4062)野々口彦助、(4067)森可春、(4070)各務正利、(4086)吉原少兵衛、(4149)淀屋言當、(4152)稲田示植、
     (4153)山田宗登、(4157)可島政重ほかである。


又近利の息・近元が細川家にいた事が寛永六年五月廿日「日帳」抜粋(1)や、(福岡県史・近世編--細川小倉藩二p259)(2)で知ることが出来る。

 
     (1) 「津川数馬殿御座候前之へいころき候間、作事申付候様ニとの御使候(以下略)」
     (2) 「津川近元邸前ノ転倒ノ塀ノ作事ヲ命ズ」との脚注がある。


         織田信重
            |------津田三十郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→津田家 
        
        +---●

        |         数馬
斯波義近---+---近利----近元----辰房
        |               |
        |               ↓                      平左衛門
        +---辰珍======辰房---+--辰之---辰貞==辰氏---辰陳・・・・・・・・・・・・・・・→津川家
        |                   |             ↑
        |                   +---辰則(辰氏)・・・・・・
        |
        +---親行
            |
  織田有楽------●


 近元が細川家に召し出されていたのかどうかは、史料が乏しく現況では判然としない。細川家家臣・津川家祖辰珍は近元の息・辰房を養嗣子としている。当時辰珍は1,250石、寛永十九年250石を甥・津川三十郎に分知し、養嗣子・辰房は1,000石を家督している。いろいろ面白いお家の事情がある。

 

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不愉快な敬老の日

2012-09-17 08:20:15 | 徒然

私も70歳8ヶ月の身だから敬老の日対象者なのだろうが、この日がやってくると毎年のこと不愉快な思いに駆られる。
熊本では例年、地元新聞社の主催で「金婚夫婦」を表彰するのである。天皇陛下のご成婚を記念して始まったらしい。
お二人お元気で金婚式を迎えられた皆様には、心からお祝い申し上げる。
問題は夫を亡くし、妻を亡くして50年がんばってこられた方が大勢いらっしゃる、そんな方々の気持ちをまったく忖度していない。
私もあと五年もすれば該当者になるのだが、10年ほど前まではいわゆる戦争未亡人という方がたくさん居られた。
女一人で苦労して子供さんを育て上げられた。そんな人たちを横目に見ているこのような行事は、差別に他ならない。
私の母は戦争未亡人ではないが、結婚生活が十年にも満たずに夫と死別した。
叔母(母の妹)夫婦が金婚式を迎えたとき、そのことを知った母が発した「良かったね」の一言が、自らの無念な思いをこめたように聞こえて泣けるような思いに浸ったことを思い出す。
はたして天皇・皇后両陛下はお喜びになるだろうか。否、両陛下のお心は夫を亡くし、妻を亡くしてがんばってこられた方々にも注がれるであろう。

もっこす爺はこんな偽善的行事は大嫌いである。

 

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小泉八雲曰く

2012-09-16 10:17:46 | 徒然

 藤崎八旛宮秋の例大祭は最近では隋兵祭りと呼んでいるようだが、かっては「ぼした祭り」と呼んでいた。
私らより年配の人は誰でも知っていることである。これは加藤清正の朝鮮出兵に由来するものであり「敵を滅ぼした」から来たというのが通説である。
これを関係者は認められないのだが、結構有力な証拠がある。明治二十六年九月二十三日、小泉八雲が友人に送った手紙にあった。

           『没したり、朝鮮没したり』を口々に叫びながら、興味深い馬飾りをつけた馬たちを町通りに駆けるのです。

このようなことは隠し立てせず、認めるものは認めたうえで新たなお祭りとして行けばよいと思うのだが・・・・如何?

                                                    

                    台風の到来で熊本は、一気呵成に「隋兵寒合(がんや)」の秋の気配と成りました。

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藤崎八旛宮例大祭の日

2012-09-16 07:45:20 | 熊本

 随分でかい台風がやって来ています。そのせいか昨日は一時的にすごい風と雷雨に見舞われました。今日は藤崎八旛宮の秋の例大祭ですが、朝の御神幸(朝隋兵)が御旅所に向かっている最中です。最後尾の到着はお昼頃になるのかな? なんとか雨もふらず、観る人にとっては「隋兵寒合」で暑くもなく絶好の日和なのかもしれません。問題は夕隋兵ですねー、台風の影響がないことを祈りましょう・・・

私は史談会九月例会に出席です。13:30から約2時間の例会です。お祭りを横目に見ながら藤崎八旛宮に程近い会場で、メインのお話を聞いた後、三・四十分ほどあるお話をする事に成りました。資料を作ったりしていると、結構緊張してきます。 

           こんなことを書き終わったら雨が降り出しました。馬追いに参加の皆さん(15,000人?)風邪など召しませんように・・・・ 8:50追記

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第43回古書籍即売展

2012-09-15 18:08:47 | 熊本

       一年に一回の催しが43回というのは・・・すごいことである。目録を眺めながらチェックを入れていると、年金生活者にはいささか応える。

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補強資料

2012-09-15 13:22:05 | 史料

 ガラシャ夫人の生害の様子を知る資料としては、一級(二級?)資料として「霜女覚書」がある。
私はアカデミックな観点からは採用されない、「小須賀覚書」や「関原集」などの記述に共感を覚える。

  小須賀覚書
  越中守殿奥方之法度世上ニ無之堅き仕置ニ而地震の間と申候て八畳敷に座敷を拵四方之かべニ鉄砲之薬を紙袋に入懸ならへ置候而何時も大地震あり候ハゝ
  御内儀右之座敷へ御入
候て焼御果候筈ニ不断之仕置ニ而候由。

  関原集
  大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不出、
  地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これらの記述を補強するようなこんな資料がある。 

  1、常山紀談拾遺・巻四 細川家鉄炮口薬入の事
             細川家は、足軽の鉄炮口薬入革にて、鼻紙袋のごとく縫用ふ
             事の急なるときに至て、指を以捻入に利有といへり

  1、綿考輯録・第二巻 忠興公(上)p126 
       豊臣秀次反逆の由にて生害(文禄四年七月十五日) この事件に連座の疑いをもって、「石田・長束・増田・前田徳善院など
       相談にて忠興君へ切腹いたさすへき由書簡調由也」、このことを知り忠興は「切腹と仰出時の御用心に毎日行水、白き御肌
       着を御着被成候」と覚悟の程が伺える。その折の
             此時米田助右衛門を聚楽の御屋敷江被遣、伏見より一左右次第ニ上様御子様御生害させ申、御屋形に火を懸、
             切腹可仕と議定にて死期を待有之候・・・・・

  1、小笠原(少齋)家文書
       残念ながら手元に其の詳細な資料を見つけ出せないで居るが・・・・・大意次のようにある。
             ご生害のお部屋の鴨居に火薬を撒きいれ・・云々

 
 ガラシャ夫人の生害はこのような事態に至った場合には、細川家の法(決まりごと)として決められたことによる。
 其の場所は地震の間であり、火薬の遣い方など具体的であり真実味がある。
 俗な資料もなかなか説得力があるではないか・・・・・・・ 

       
        

         

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財前民助家系図

2012-09-15 07:01:13 | 徒然

この系図は、細川家家臣松野右京の家来である臼杵内蔵助が転切支丹であったため、縁戚一族が系図に残されているものである。
ここに出てくる財津休睡とあるのは、200石財津民助家である。その他については良くわからない。正作とあるのは四代目らしい。休睡とは三代目甚右衛門であろうか。陪臣である臼杵氏から養子として直臣である財津家に入ったということか。先祖附を調べなければ成らない。

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本好きのためのウォーキング入門

2012-09-14 18:24:31 | 書籍・読書

 

       本好きのためのウォーキング入門 (平凡社新書)
 
                 平凡社

  ふとこの時代に二宮尊徳でもあるまいしと思ってしまった。そして自らの早合点に笑ってしまった。
 ものを書く人たちの視点のすごさを思い知らされる。佳書である。 

 

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
ひたすら歩くウォーキングもいいが、知性と感性で楽しむ“スローウォーキング”もいいもの。川端や太宰、安吾、藤沢周平など、文豪が遺した名作の舞台や場面を訪ねてみよう。ウォーキングの達人が選ぶ、おすすめ35コース。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 名木の根元を探るウォーキング/第2章 名作の場面を追うウォーキング/第3章 古典の核心に迫るウォーキング/第4章 歴史の舞台を踏むウォーキング/第5章 古道の今昔を知るウォーキング/第6章 芸術の真髄に触れるウォーキング

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
武村岳男(タケムラタケオ)
新聞記者、スポーツ誌編集長を経て現在はスポーツジャーナリスト。学生のころから登山やスキーなどアウトドアスポーツに打ち込み、なかでもウォーキングは50年近くのキャリアがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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源君御扈従中根左源太勘気御免の事

2012-09-14 08:50:33 | 史料

「常山紀談拾遺 巻四」に 源君御扈従中根左源太勘気御免の事 という一文がある。

松倉長門守勝家は、島原(肥前の国則勝家領之)の賊のことに依りて身上滅亡せり。勝家の士飯村助兵衛と云もの、浪々して芸州広島松平安芸守光盛の城下に来る。広島の諸士島原の事を尋聞く。或とき天野半之助、飯村に、城中より長州の手へ夜討はなかりしや、と問。飯村答て、その儀なり。松倉家はその備尤厳にして雲火を投外聞を出し、夜打などに思ひよらず、と云。天野笑て、長州の家も末になりて、ことの意を解する人なかりしにや。古老の士あらば左はあるまじ。夜討のかゝるやうにしてこそ大利は有べけれ、と云へり。天野は始、源君の御扈従なり。中根左源太と号す。傍輩の士と口論して出奔し、後大坂の役道明寺口にて、松倉豊後守重正に属し、働功有ければ御勘気を許され、浅野但馬守長盛に仕禄二千石、光盛の代迄奉仕せり。
 
源君とは神君家康公のことである。そしてこの中野左源太こそ細川家家臣・上田新兵衛・天野善左衛門のご先祖である。
 
                                     1          2         3
    中根新兵衛---左源次-----+---主水正====(上田)新兵衛---治部左衛門---宇兵衛・・・・・・・・・・・→上田家(500石)
              天野半之助   |
                      |
                      |            1
                      +---半右衛門----善左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→天野家(200石) 

常山紀談では中根左源太とあるが、上田家・天野家の先祖附は左源次としている。
この左源太(次)の家康の下からの出奔については、次のようにある。
                      http://bushomemo.blog.fc2.com/blog-entry-708.html (同僚との口論から)
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御恵贈御礼

2012-09-13 18:21:57 | 徒然

 芦屋市在住のT様は田邊籠城衆のご子孫、随分古いお付き合いとなった。
 舞鶴市に於ける細川家顕彰の諸活動にがんばっておられるし、熊本歴史学研究会に席を置かれて論考の発表など精力的である。
 今般ご恵贈たまわった「ぶらり城下町田辺」は、舞鶴の文化財保護委員・地方史研究会会長などを勤められている加藤晃氏が、地元新聞に95回にわたり
 掲載されたものを冊子にまとめたものである。田邊(舞鶴)を愛して止まない氏の健筆は見事というしかない。
 熊本・泰勝寺で行われた幽齋公400年際にあたっては来熊され、T様のご紹介をえてご挨拶申し上げた。
 ますますご健勝にてのご活躍を祈るばかりである。

 今一冊は私がここ数年探し続けていた、寺島雅子様(護貞様御妹-徳川恒孝夫人御母)の著「梅鉢草」(昭和60年発行)である。
 T様が愛蔵されていたものだが、この度ご恵贈を給わったものである。
 ここには雅子様のお遊びの相手役を仰せつかった叔母のことが書かれている。祖父が細川家の御役間に勤めていた関係でお声が掛かったのだろう。
 この本を書店で見つけ即購入して叔母に贈った。25年ほど経過している。そのご新たに購入しようと思ったがすでに品切れとのことであった。
 深く御礼申し上げる。
  

  

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御成道

2012-09-13 07:17:43 | 熊本

 九州新幹線の高架橋に隣接して在来線の高架橋の工事が行われている。ちょうど細川家の菩提寺であった妙解寺の前くらいまで進んでいる。
高麗門から妙解寺に至る御成道(参詣道路)の発掘作業が急ピッチで行われており、ちょっと現場をのぞいてみた。
撮影した場所は妙解寺近くの下馬天神前の踏み切りで、熊本駅方面を背にして高麗門方向を写して見た。右手が堀のあと、左手が堀を一部埋め立てて御成道が作られている。
ようやく涼しくなっていく熊本だが、これまでに至る作業が炎天下の元でなされた。
熱中症などなかったのかしらと、心配になってしまう。10月には入ってから説明会が催されるらしい。漏れ伺うところによると、貴重な発見もあったみたいで大変興味深い。 

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