細川家史料において、斯波氏武衛家最後の当主・津川近利(義近、初・斯波義銀、号・休閑)についての消息はあまり見受けられない。
別の史料から以前 津川近利のこと で若干触れた。
大日本近世史料・細川家史料においては、寛永十五年の嶋原一揆の前後に忠利が発した書状が二通見える。
■寛永十五年二月十六日津川近利宛書状(4008)
内容については割愛するが陣中見舞いに対する返礼の書状である。
戦況がわりと詳しく書かれており、この時期の状況を知るのに有効である。
■寛永十五年三月十四日津川近利宛書状(4217)
こちらは一揆終結後の書状で、弟辰珍のことなどにも触れている。
如仰有馬一揆早々討取埒明申ニ付而 いつれも歸國仕候 隠岐殿(松平定行)より御使者を被下
忝儀共ニ候 御心得候て可被下候 四郎右(辰珍)も今度首尾能候つる間 可御心安候 恐惶謹言
三月十四日
津川休閑様
御報
寛永七年すでに弟・辰珍が細川家に召し出されている。その弟の安否を近利が気遣ったのであろう事に応えている。
この戦において辰珍は忠利の傍に在ったらしく多くの書状を受けている。その状況が忠利の礼状によってわかる。
(4007)神田入庵・河内、(4062)野々口彦助、(4067)森可春、(4070)各務正利、(4086)吉原少兵衛、(4149)淀屋言當、(4152)稲田示植、
(4153)山田宗登、(4157)可島政重ほかである。
又近利の息・近元が細川家にいた事が寛永六年五月廿日「日帳」抜粋(1)や、(福岡県史・近世編--細川小倉藩二p259)(2)で知ることが出来る。
(1) 「津川数馬殿御座候前之へいころき候間、作事申付候様ニとの御使候(以下略)」
(2) 「津川近元邸前ノ転倒ノ塀ノ作事ヲ命ズ」との脚注がある。
織田信重
|------津田三十郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→津田家
+---●
| 数馬
斯波義近---+---近利----近元----辰房
| |
| ↓ 平左衛門
+---辰珍======辰房---+--辰之---辰貞==辰氏---辰陳・・・・・・・・・・・・・・・→津川家
| | ↑
| +---辰則(辰氏)・・・・・・
|
+---親行
|
織田有楽------●
近元が細川家に召し出されていたのかどうかは、史料が乏しく現況では判然としない。細川家家臣・津川家祖辰珍は近元の息・辰房を養嗣子としている。当時辰珍は1,250石、寛永十九年250石を甥・津川三十郎に分知し、養嗣子・辰房は1,000石を家督している。いろいろ面白いお家の事情がある。